ヤコブの家から御顔を隠されていても、私は主に望みをかける。(イザヤ8:17)
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13)
今日の新約聖書の御言葉は文章の途中から始まっていますが、前の節を見るとこの文章の主語は「神の恵み」です。神の恵みが、今の時代にあって私たちに幸いなる希望を待ち望むように教えている、という流れの文章です。
今の時代にあってというのは、もちろん、もともとはテトスの手紙が書かれた紀元一世紀のことでしょう。しかし今この時代を生きる私たちの時代、今この時代、と捉えても何ら差し支えないはずです。恐らく紀元一世紀も今も、同じように、社会の中に希望は見えにくいのではないかと思います。今後私たちの身の回りの状況が好転していくとは考えにくいし、ましてや神さまの御前に良い方向に社会が発展していくとはとても思えない。しかしそのようなことを時代を評論家のように論じて見せても仕方がありません。私たち自身がこの時代の子であり、この時代の精神を呼吸して生きている。しかしそういう時代を生きる私たちに対して神の恵みは幸いなる希望を待ち望めしめる、と聖書は言います。
それでは幸いなる希望とは一体何か。それは「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」のことだとはっきりと言います。イエス・キリストが私たちの救い主として来てくださる。この希望は、この時代がどんなに救いがたく見えても変わりません。或いはそうやって時代を裁き、世を裁いているこの私の罪がどんなに深く、深刻であったとしても、キリストは私たちのところにくるのを決しておやめにはならない。聖書はそのように言うのです。
今いちばん大切なこと、私たちにとってかけがえのない宝、決して止めてはならないことは多くはありません。いや、一つだけです。神を信じましょう。神さまの御前に敬虔に生きていきましょう。祈り、信じ、望みを抱き、キリストへのこよなき愛に生きていきましょう。必ずキリストは来てくださいます。約束のとおりに!だからいつの時代にあってもキリストを待ち望み、キリストをお迎えする準備を今日も一日重ねていきましょう。
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13)
今日の新約聖書の御言葉は文章の途中から始まっていますが、前の節を見るとこの文章の主語は「神の恵み」です。神の恵みが、今の時代にあって私たちに幸いなる希望を待ち望むように教えている、という流れの文章です。
今の時代にあってというのは、もちろん、もともとはテトスの手紙が書かれた紀元一世紀のことでしょう。しかし今この時代を生きる私たちの時代、今この時代、と捉えても何ら差し支えないはずです。恐らく紀元一世紀も今も、同じように、社会の中に希望は見えにくいのではないかと思います。今後私たちの身の回りの状況が好転していくとは考えにくいし、ましてや神さまの御前に良い方向に社会が発展していくとはとても思えない。しかしそのようなことを時代を評論家のように論じて見せても仕方がありません。私たち自身がこの時代の子であり、この時代の精神を呼吸して生きている。しかしそういう時代を生きる私たちに対して神の恵みは幸いなる希望を待ち望めしめる、と聖書は言います。
それでは幸いなる希望とは一体何か。それは「私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ」のことだとはっきりと言います。イエス・キリストが私たちの救い主として来てくださる。この希望は、この時代がどんなに救いがたく見えても変わりません。或いはそうやって時代を裁き、世を裁いているこの私の罪がどんなに深く、深刻であったとしても、キリストは私たちのところにくるのを決しておやめにはならない。聖書はそのように言うのです。
今いちばん大切なこと、私たちにとってかけがえのない宝、決して止めてはならないことは多くはありません。いや、一つだけです。神を信じましょう。神さまの御前に敬虔に生きていきましょう。祈り、信じ、望みを抱き、キリストへのこよなき愛に生きていきましょう。必ずキリストは来てくださいます。約束のとおりに!だからいつの時代にあってもキリストを待ち望み、キリストをお迎えする準備を今日も一日重ねていきましょう。