主は王である。地は喜べ、多くの島々は楽しくあれ。(詩編97:1)
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)
神の国、と言っています。神の国、それは飲み食いではない。飲み食いに象徴される私たちの欲望を満足させることではない。欲望の充足は、足ることを知りません。いつでも渇き、もっともっとと求め続けて際限がない。他人のものを貪り尽くします。私たちは普段上品に振る舞っているので目の前の他人のものを奪い取ることはあまりしませんが、遠くの、会ったこともない、自分では存在を感じない人のものは簡単に奪います。周縁の国々や未来の世代に負担を押しつけているということは、最近よく指摘されることです。「飲み食い」に象徴される私たちの欲望は、満足を知りません。それを満たすために神の国が来るのではない、と言うのです。
それでは、神の国とは一体何か。「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」義と平和と喜び。しかも、聖霊が与えてくださる義と平和と喜び。
義というのは、神さまとの本来あるべき関係を意味する言葉です。神さまが私たちを造り、命を与え、極めて良いと言ってくださった。私たちは神さまを礼拝し、神さまに従って生きます。
平和は、ここでは隣人との平和のことでしょう。神さまの前で義しく生きることと、隣人と平和に生きることとは別々のことではありません。聖霊が、私たちの間に平和を打ち立ててくださいます。争いのあるところに平和をもたらすために、神さまは私たちをキリストにあって救ってくださいました。
神と共に生き、隣人と共に生きる。その喜びは誰にも消すことができません。喜びこそ、キリスト者の生活のすばらしさです。「主は王である。地は喜べ、多くの島々は楽しくあれ。」主なる神さまを王としてあがめ、主イエスさまの愛を喜んで生きる私たちを、神様ご自身も喜んでくださいます。私たちはそう信じている。神の喜びが私たちの喜びを呼び覚まし、私たちを平和の道に導いてくださいます。私たちは怒りや憎しみに生きるためではなく、喜びに生きるために命を与えられ、神の祝福の内にこの世に生み出されたのです。今日も、あなたに祝福がありますように!
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)
神の国、と言っています。神の国、それは飲み食いではない。飲み食いに象徴される私たちの欲望を満足させることではない。欲望の充足は、足ることを知りません。いつでも渇き、もっともっとと求め続けて際限がない。他人のものを貪り尽くします。私たちは普段上品に振る舞っているので目の前の他人のものを奪い取ることはあまりしませんが、遠くの、会ったこともない、自分では存在を感じない人のものは簡単に奪います。周縁の国々や未来の世代に負担を押しつけているということは、最近よく指摘されることです。「飲み食い」に象徴される私たちの欲望は、満足を知りません。それを満たすために神の国が来るのではない、と言うのです。
それでは、神の国とは一体何か。「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」義と平和と喜び。しかも、聖霊が与えてくださる義と平和と喜び。
義というのは、神さまとの本来あるべき関係を意味する言葉です。神さまが私たちを造り、命を与え、極めて良いと言ってくださった。私たちは神さまを礼拝し、神さまに従って生きます。
平和は、ここでは隣人との平和のことでしょう。神さまの前で義しく生きることと、隣人と平和に生きることとは別々のことではありません。聖霊が、私たちの間に平和を打ち立ててくださいます。争いのあるところに平和をもたらすために、神さまは私たちをキリストにあって救ってくださいました。
神と共に生き、隣人と共に生きる。その喜びは誰にも消すことができません。喜びこそ、キリスト者の生活のすばらしさです。「主は王である。地は喜べ、多くの島々は楽しくあれ。」主なる神さまを王としてあがめ、主イエスさまの愛を喜んで生きる私たちを、神様ご自身も喜んでくださいます。私たちはそう信じている。神の喜びが私たちの喜びを呼び覚まし、私たちを平和の道に導いてくださいます。私たちは怒りや憎しみに生きるためではなく、喜びに生きるために命を与えられ、神の祝福の内にこの世に生み出されたのです。今日も、あなたに祝福がありますように!