2022年4月15日金曜日

2022年4月15日の聖句

不当な利益にではなく
あなたの定めに私の心を傾けさせてください。(詩編119:36)
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。(フィリピ2:8)

受難週の金曜日を迎えました。聖なる金曜日。主イエス・キリストが十字架にかけられた日。キリストが、この私のためにご自分のすべてを献げてくださった日です。今日、私たちの目は下に向かいます。キリストが誰よりもへりくだって、地に這いつくばって、陰府にまで降って行かれたからです。
今日の新約聖書の御言葉が書かれているフィリピの信徒への手紙2:6~11は、聖書の伝える福音が凝縮されているような箇所です。例えば6,7節にはこのように書かれています。「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。」主イエスさまのへりくだり、従順は、神と等しくあることに固執しないで、人間と同じ者になられたというところでまず現れた、と言っています。ご自分のあり方に固執をしなかった。そういうキリストのあり方が鏡のようになって私を映し出します。神と等しい方が神であることにさえ固執なさらなかったのに、私は何と自分のあり方に固執していることでしょう。自分を変えるのは、とても不安なことです。怖いことです。そのために心も体も硬くなって、固執し出す。そうすると、自分は変えず、変わらずに周りを変えようとします。自分を中心にし始めます。
キリストは、本当に中心におられるべき神ご自身です。しかし、キリストはそういう神の形に固執なさらずにへりくだって人間と同じ者になられた。それどころか、私たち人間だってしないことをなさいました。十字架にかけられて、死なれました。十字架は、「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書かれているとおり、神に呪われ、罪人として死ぬということです。キリストのへりくだりは、人間になるどころか、罪人として死ぬところにまで徹底した。罪を犯したことのない方が、神に呪われた罪人としての罰として死なれたのです。このへりくだりだけが、私たちを救います。私たちは上を目指して、勝ち組になることによって救われるのではなくて、徹底してへりくだってくださった神さまの憐れみによって救われるのです。
どうか、キリストの歩みに私の心が傾けられますように。どうか自分の利得のためでなく、私のために徹底してへりくだってくださった方のために、この心も体も献げることができますように。アーメン。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...