私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び踊る。(ハバクク3:18)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)
今日の新約聖書のルカによる福音書の御言葉は、この段落全体を読むととても興味深い箇所です。主イエスの72人の弟子たちが伝道旅行に派遣された。行く先々で、彼らは悪霊を追い出し、服従させることにさえ成功しました。帰って来て、主イエスにそのことを喜んで報告した。すると主イエスが言われるのです。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」
せっかく成果を上げて帰って来たのに、水を差すようなことを主イエスは言われるのです。そんなことを喜ぶな、と。ある意味では、主イエスからしたらそれは当然、という思いもあったのかも知れません。私が力を授けたのだから、悪霊に打ち勝つのは当然だ。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」むしろ、このことを喜べ、といっておっしゃったのが、今日の御言葉です。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
今日、私たちは自分の喜びを点検してみたいと思います。私たちの喜びはどこから来る喜びでしょうか。自分が上げた華々しい成果なのか。それは主イエスのご用のお役に立った、という喜びであったとしても、主イエスは、私が力を授けたのだからそれは当然、と言われるかも知れません。私たちは何ができた、どういう成果を上げることができたということよりももっともっと大きな奇跡にあずかっている。そのことをこそ喜べ、と主は言われます。「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい。」神が私たちを覚え、私の名前も記してくださっている。私もキリストに救って頂いた。その事実をこそ喜べ、と主は言われます。
もしかしたらこの喜びは、私たちにとっては存外にしんどい喜びではないでしょうか。目に見える成果や自分の成長のほうが分かりやすいし、納得しやすいし、説得力があります。しかし本当に価値があるのは、私の力がどれだけなのかということではなく、悪霊を追い出す力を与え、私の名を天に記録することさえできるキリストのお力です。そのキリストが今日も私の救いのために働いてくださっている。その事実を私たちは喜び、主の御前に歩む。ここに、尽きることのないまことの喜びがあります。
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)
今日の新約聖書のルカによる福音書の御言葉は、この段落全体を読むととても興味深い箇所です。主イエスの72人の弟子たちが伝道旅行に派遣された。行く先々で、彼らは悪霊を追い出し、服従させることにさえ成功しました。帰って来て、主イエスにそのことを喜んで報告した。すると主イエスが言われるのです。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」
せっかく成果を上げて帰って来たのに、水を差すようなことを主イエスは言われるのです。そんなことを喜ぶな、と。ある意味では、主イエスからしたらそれは当然、という思いもあったのかも知れません。私が力を授けたのだから、悪霊に打ち勝つのは当然だ。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」むしろ、このことを喜べ、といっておっしゃったのが、今日の御言葉です。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
今日、私たちは自分の喜びを点検してみたいと思います。私たちの喜びはどこから来る喜びでしょうか。自分が上げた華々しい成果なのか。それは主イエスのご用のお役に立った、という喜びであったとしても、主イエスは、私が力を授けたのだからそれは当然、と言われるかも知れません。私たちは何ができた、どういう成果を上げることができたということよりももっともっと大きな奇跡にあずかっている。そのことをこそ喜べ、と主は言われます。「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい。」神が私たちを覚え、私の名前も記してくださっている。私もキリストに救って頂いた。その事実をこそ喜べ、と主は言われます。
もしかしたらこの喜びは、私たちにとっては存外にしんどい喜びではないでしょうか。目に見える成果や自分の成長のほうが分かりやすいし、納得しやすいし、説得力があります。しかし本当に価値があるのは、私の力がどれだけなのかということではなく、悪霊を追い出す力を与え、私の名を天に記録することさえできるキリストのお力です。そのキリストが今日も私の救いのために働いてくださっている。その事実を私たちは喜び、主の御前に歩む。ここに、尽きることのないまことの喜びがあります。