2022年4月26日火曜日

2022年4月26日の聖句

どこに、生きていて死を見ない人が、
自分の魂を死の手から救う人がいるでしょうか。(詩編89:49)
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)

聖書を読むと、死には二つの側面があるように思います。一つは、私たちが生きているものとして、あるいは造られたものとして、必然的に迎えるべき死です。私たちは造られたものであって神ではない。神に与えられた命は、人生の道を歩み終えた後、神にお返しすべきものです。命あるものとして、私たちはいずれ死を迎えます。それは、自然なことです。
ところが、死にはもう一つの側面があるのだと思います。そのことをローマの信徒への手紙では「罪の支払う報酬は死です」と言っています。私たちは、罪人として死ななければならない。神に裁かれ、滅ぼされ、罪の報いとして死を迎えねばならない。その死は、神の裁きとしての死です。
この二つの死は不可分に組み合わされていて別々に考えることはなかなかできませんが、しかしやはり、私たちはただ単に生物として命の終わりを迎えると言うだけではなく、神に裁かれなければならない一人の罪人だということは、忘れてはならないことなのだと思います。主イエスは十字架の上で「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。キリストは神に裁かれて死ぬことがどんなに恐ろしいことなのか、神に棄てられることがどんなに悲惨なことなのかを誰よりもご存じでした。だから、誰よりも深く絶望なさいました。罪を犯したことのない方がほんの僅か一瞬であっても御自ら神の子であることを放棄して、私たち罪人の代表として神に裁かれ、死の呪いを引き受けたのです。
だから、聖書は言います。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」キリストが、私たちを罪から救ってくださいました。私たちの代わりに神に裁かれた方は、私たちを命へと救ってくださいました。だから、私たちはもう神の裁きとしての死、神に棄てられ、呪いとしての死を経験しないで済むのです。私たちがなお迎えねばならない死の意味が変わった。死は、今やよりよき命に生まれるための通路に過ぎないのです。私たちは既に死んだ者たち、そして自分自身の死についても望みを持っています。キリストが命へと救いだしてくださった、という希望を。

2024年12月22日の聖句

今週の聖句: 主にあっていつも喜びなさい。主は近いのです。(フィリピ4:4,5b) 今日の聖句: あなたこそわが希望なる主。わが神よ、私は若い時からあなたに信頼しました。(詩編71:5) 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見て...