2022年5月6日金曜日

2022年5月6日の聖句

神はすべての業を裁きの場に持ち込まれる、隠れていることもすべて、良いことであれ悪いことであれ。(コヘレト12:14)
私たちのそれぞれが自分自身のために神に釈明することになります。だから、もうお互いに裁き合うのは止めましょう。(ローマ14:12~13)

今日の御言葉は、旧約も新約もどちらも神の裁きについて語っています。「神はすべての業を裁きの座に持ち込まれる。」それは良きにつけ悪しきにつけ、明らかなことも隠されたことも、すべて。すべてのことについて、私たちは自分自身のために釈明しなければならない、と言います。
現代社会が忘れ去った恐れを取り戻させる御言葉です。自分の生き方や考え方、してきたことやしなかったことが神の前で裁かれる。そういう事実への恐れをなくしたから、私たちはこんなにも恥知らずな行いを続けてしまっているのではないでしょうか。あるいは、「現代社会」というよりも、私たち人間の営みはずっと昔からそうなのかも知れません。昔から「旅の恥はかき捨て」という言葉があります。世間の目が届かないところなら多少は羽目を外しても良い、ということです。世間や社会を超えた絶対的な目を意識していたら、そういう言葉は出て来ないと思います。
聖書がすごいところは、そういう神さまの裁きの目を考える時に「だから、もうお互いに裁き合うのは止めましょう」と言って、私たちの裁きの心に注目していることです。私たちが簡単に人を裁いてしまう現実に、私たちの罪の姿をじっと見据えている。この人間を見る目は鋭いと思います。私たちは簡単に人を裁きます。特にテレビの中に出て来る人やネットの向こうにいる人、つまり顔の見えない人や自分と縁遠い人のことは簡単に裁いてしまう。しかしそれだけではなく、家族であっても不満を持ち、同僚については陰口を言い、友だちのあらを何気なく探してしまうところにも、裁きの心は顔をのぞかせている。ファリサイ根性と言ってもいい。しぶとく、根強い私たちの心根ではないでしょうか。主イエスは、そういう私たちの心に裁かれて十字架に掛けられたのではないでしょうか。ですから、キリストが十字架にかけられた時、神の子が人間に裁かれたのと同時に、神の子を裁く私たちのファリサイ根性が神に裁かれたということに他ならないのだと思います。裁きの心の餌食になっている私たちを救うために、神さまは、ご自分が裁かれるという方法を選んでくださいました。私たちは、私たちに裁かれた救い主によってでなければ、救われない。そして、その方がおられるから、私たちは確かに神に救われたのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...