2022年7月5日火曜日

2022年7月5日の聖句

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)
信仰による人々こそ、アブラハムのこどもたちです。(ガラテヤ3:7)

アブラハムは主なる神さまに呼ばれて、75歳の時に生まれ故郷を離れて旅を始めます。神が与えると約束した地に向かって。アブラハムと妻サラとの間には子どもがいませんでした。しかし主なる神さまはアブラハムに約束したのです。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。」
しかしその後、何年もアブラハムには子どもが与えられませんでした。ですから、主なる神さまが再びアブラハムに臨み、「あなたの受ける報いは非常に大きい」とおっしゃったとき、アブラハムは「私に何をくださるというのですか」「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が後を継ぐのです」と言いました。そう応えないわけにはいかなかった。
ところが、主なる神さまはアブラハムに重ねて言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」「あなたの子孫はこのようになる。」それで、アブラハムは主を信じました。
私たちには、人間としての限界や、自分の計算ではどうにもならないことや、まったく見通しが立たなくて絶望することがあるのではないでしょうか。私たちにはもうどうすることもできない。アブラハムが「家の僕が跡を継ぐのです」と言ったのは、そういう限界での言葉だったのだと思います。しかし、神さまはアブラハムや私たちには想像も付かないことをなさいます。だから、私たちはただ信じるだけです。主なる神さまが始めてくださる新しい出来事に、私たちの想像が及ばないことを、私たちの力の限界の外にあることを、神さまはなさることができる。私たちは神さまを信じ、神さまに期待し、神さまを待ち望みます。神さまは、ご自分を信じる者を義としてくださいます。
現代は、信じることの価値を徹底的に貶めた時代です。信仰の尊さがこれほど見下げられた時代があったのでしょうか。神なんて信じないことが人間らしいあり方だという言説が広く受け入れられています。しかし私たちも、アブラハムの子です。私たちには確かに力がないし、どうすることもできないことだらけだし、周囲が手放しに信仰を重んじてくれるわけではないけれど、私たちは神さまを信じます。この方は慈しみに富み、私たちのために独り子をも与えてくださる深い愛のお方だということ、私たちの想像を超えて恵み深い方だということを私たちは信じ、ただ信じるゆえに、信仰の子として生きていきます。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...