2022年7月9日土曜日

2022年7月9日の聖句

主が彼らに乾いた地を行かせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせた。(イザヤ48:21)
イエスは言う:渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)

福音書を開くと、主イエスさまがたびたび一人で祈りに打ち込んでおられるご様子が記されています。主イエスは一人寂しい場所に退いて祈りをなさった。そういう祈りの時間の積み重ねが、信仰生活です。昨日、私たちの生きる国の憲政史に残るであろう大事件が起きました。心が落ちつかずに過ごされた方も多いのではないかと思います。そういうときこそ、今日私たちは祈りに打ち込みましょう。一人、さみしい場所に退いて祈り、主イエスさまと共に過ごしましょう。私たちには他にはないのです。
聖書は、神を信じる者には困ったことが起こらないとは言いません。「主が彼らに乾いた地を行かせたときも」と言っています。乾いた地を行くときが必ず来る。しかも、他でもなく主なる神さまが私たちにそういう道を歩かせるのです。エジプトを出たヘブライ人たちが荒れ野を進んだように、私たちの信仰生活は荒れ野の旅路です。私たちの旅は乾いた地と不可分です。必ず乾いた地、苦難の地を通らなければならない。しかし、神さまはそういう場所に私たちをただ放り込んで終わりということではなくて、私たちのために岩から水を流れさせて、私たちが渇かないようにしてくださいます。私たちは荒れ野を旅する。乾いた地を生きねばならない。しかし、神は私たちのために岩から水を湧き出せてくださる。それが、聖書の私たちに伝えることです。
ここで、神さまは「岩から」水を流れさせると言われています。そして更に主イエスは「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」と言われる。主イエス御自身が岩になって、私たちのための命の水はこの方から湧き出てくる。キリストは、私たちのための岩です。岩は、私たちの知識や力や可能性の範囲内では、水が湧いてくることがありません。硬い岩を突き崩して井戸を掘るのはたいへんです。ところが私たちの目からは一見すると無価値だったり、可能性がなかったりする岩から水が湧き出てくる。それは、主イエスがかけられた十字架のことです。十字架は死刑の道具です。残忍な処刑道具です。しかし、十字架にかけられて殺された方が私たちに命を与える泉になってくださる。私たちの力や知識や可能性の外から、神さま御自身が命の水を与えてくださるのです。
主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...