わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した。(出20:2)
主の霊がおられるところには自由があります。(2コリント3:17)
今週の日曜日は私の夏休みということもあり、また家族全員がコロナの隔離期間だったので、オンラインで別の教会の礼拝に出席しました。鎌倉雪ノ下教会でした。この教会では礼拝の中で十戒を唱えています。今日の旧約聖書の御言葉は十戒の冒頭の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した」とある。十戒といえばその後に来る戒めにばかり目が行きがちですが、このような神さまの自己紹介から全体が始まっているというのは意外なことではないでしょうか。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した。」そして、今日の新約聖書の御言葉も趣旨はよく似ていると思います。「主の霊がおられるところには自由があります。」どちらも、私たちの自由にかかわる。神さまはご自分を信じる私たちを自由にしてくださるのだ、と宣言しています。神を信じるとは、自由になって生きるということです。
このしばらくの間、コロナになってずいぶんと不自由を強いられました。どこにも外出できません。家でじっとしていないと生けないというのは不自由です。いつでもどこにでも、行きたいところへ行ってしたいことをする自由は尊い。しかし、ウイルスを体に秘めている状態では、誰かと会えば病気をうつしてしまいますし、そこらを出歩けば人に迷惑をかけてしまいます。ですから縄で括られていなくても家にいることを選ぶことになる。もう少し事柄を敷衍して考えると、私たちには他者のために自分に不自由を強いる自由がある、ということではないかと思います。他者を愛するために自分の自由を一時停止する自由に生きることができる。
十戒は奴隷であった者を自由にしてくださった方がお与えになった「法」です。それに従うことを求める。神の霊は私たちを野放図にするのではなく、神に従う自由に招きます。私たちは自由です。今日、この自由な命によってどのように生きるのでしょうか?
主の霊がおられるところには自由があります。(2コリント3:17)
今週の日曜日は私の夏休みということもあり、また家族全員がコロナの隔離期間だったので、オンラインで別の教会の礼拝に出席しました。鎌倉雪ノ下教会でした。この教会では礼拝の中で十戒を唱えています。今日の旧約聖書の御言葉は十戒の冒頭の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した」とある。十戒といえばその後に来る戒めにばかり目が行きがちですが、このような神さまの自己紹介から全体が始まっているというのは意外なことではないでしょうか。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の状態から導き出した。」そして、今日の新約聖書の御言葉も趣旨はよく似ていると思います。「主の霊がおられるところには自由があります。」どちらも、私たちの自由にかかわる。神さまはご自分を信じる私たちを自由にしてくださるのだ、と宣言しています。神を信じるとは、自由になって生きるということです。
このしばらくの間、コロナになってずいぶんと不自由を強いられました。どこにも外出できません。家でじっとしていないと生けないというのは不自由です。いつでもどこにでも、行きたいところへ行ってしたいことをする自由は尊い。しかし、ウイルスを体に秘めている状態では、誰かと会えば病気をうつしてしまいますし、そこらを出歩けば人に迷惑をかけてしまいます。ですから縄で括られていなくても家にいることを選ぶことになる。もう少し事柄を敷衍して考えると、私たちには他者のために自分に不自由を強いる自由がある、ということではないかと思います。他者を愛するために自分の自由を一時停止する自由に生きることができる。
十戒は奴隷であった者を自由にしてくださった方がお与えになった「法」です。それに従うことを求める。神の霊は私たちを野放図にするのではなく、神に従う自由に招きます。私たちは自由です。今日、この自由な命によってどのように生きるのでしょうか?