私の民は、平和な牧地、安全な家に住むことになる。(イザヤ32:18)
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。(エフェソ2:19~20)
本当に悲しいことに、今も戦争をしている国があります。当事者になると恐らく分からなくなってしまう、しかし傍から見ているとよく分かることは、両国がまったく違う物語に生きている、ということです。片方の国にはその国の、他方の国にもそちらの国の物語があり、おのおの自分の物語の中で正当性を持ち、自分が正しいと信じている。それは歴史という物語であったり、安全保障という物語であったり、経済という物語であったりします。全部、それぞれ別々の物語を生きている。
それは何も国と国の間だけの話ではありません。個々人の間にもあらゆるところに物語があり、現代では多くの場合、それぞれの物語が対立していて、分断され、対話することもできなくなっているのではないでしょうか。
聖書は言います。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民」だ、と。これまではそれぞれ自分だけの物語を生きてきたのかもしれない。そのために孤独であり、敵対し合ってきたのかも知れない。しかし私たちは、この私をも天の国の民としてくださったキリストの物語を生きているではないか、と。キリストが命を献げて私を愛し、罪から救ってくださった。それこそが私たちすべての人に共通する物語であり、私たちはキリストの愛のゆえに一つになることができる。言うまでもないことですが、この場合の「物語」にはフィクションという意味は一切ありません。私たちはキリストのリアルな血によって結ばれた神の家族です。私たちは使徒たちや預言者たち(つまり、聖書)を土台とし、キリスト・イエスご自身が要石となった家(つまり、教会)に住んでいます。私たちはもはや一人ではない。敵対や分断しているのではない。キリストの赦しの愛に結び合わされています。
「私の民は、平和な牧地、安全な家に住むことになる。」キリストの愛が生む平和に、私たちは生かされている。だから、私たちは平和を作り出すものとして生きることができますように、と神さまに祈りつつ、今日の日を生きていきます。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。(エフェソ2:19~20)
本当に悲しいことに、今も戦争をしている国があります。当事者になると恐らく分からなくなってしまう、しかし傍から見ているとよく分かることは、両国がまったく違う物語に生きている、ということです。片方の国にはその国の、他方の国にもそちらの国の物語があり、おのおの自分の物語の中で正当性を持ち、自分が正しいと信じている。それは歴史という物語であったり、安全保障という物語であったり、経済という物語であったりします。全部、それぞれ別々の物語を生きている。
それは何も国と国の間だけの話ではありません。個々人の間にもあらゆるところに物語があり、現代では多くの場合、それぞれの物語が対立していて、分断され、対話することもできなくなっているのではないでしょうか。
聖書は言います。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民」だ、と。これまではそれぞれ自分だけの物語を生きてきたのかもしれない。そのために孤独であり、敵対し合ってきたのかも知れない。しかし私たちは、この私をも天の国の民としてくださったキリストの物語を生きているではないか、と。キリストが命を献げて私を愛し、罪から救ってくださった。それこそが私たちすべての人に共通する物語であり、私たちはキリストの愛のゆえに一つになることができる。言うまでもないことですが、この場合の「物語」にはフィクションという意味は一切ありません。私たちはキリストのリアルな血によって結ばれた神の家族です。私たちは使徒たちや預言者たち(つまり、聖書)を土台とし、キリスト・イエスご自身が要石となった家(つまり、教会)に住んでいます。私たちはもはや一人ではない。敵対や分断しているのではない。キリストの赦しの愛に結び合わされています。
「私の民は、平和な牧地、安全な家に住むことになる。」キリストの愛が生む平和に、私たちは生かされている。だから、私たちは平和を作り出すものとして生きることができますように、と神さまに祈りつつ、今日の日を生きていきます。