正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。(詩編89:15)
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。(コロサイ3:12)
主イエス・キリスト。この方こそ私たちのまことの王です。「正義と公正は王座の礎」と書かれています。王キリストの座っておられる王座の礎は、正義と公正。キリストという王さまは、正義と公正によって私たちを治める。
それだけではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」これも驚くべき言葉だと思います。多くの場合、私たちの知っている正義と公正は、とても冷たいものになるからです。血の通っていない正義、人の息づかいを失った公正。ところがキリストはそうではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」王キリストにおいては、正義と公正、そして慈しみとまことが矛盾しないのだ、と聖書は言います。
まさに、福音書が伝えるキリストはそういう方です。正義と公正、慈しみとまこと。キリストは余すところなくそれらを示してくださいました。そうであるからこそ、キリストは十字架にかかったのだということに他ならないのではないでしょうか。
このお方の御前で、聖書は私たちに命じます。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。」神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、と言います。キリストの王としての御支配に生きる者として(それは、言い方を変えれば神の国に生きる者として、ということです。)、私たちは深い慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と言います。一言で言えば、キリストのまねをしよう、ということです。私たちはキリストのまねをして生きていく。
野球の好きな息子が、一所懸命に選手のまねをしています。投げるまねや打つまねをします。想像の翼を拡げている。好きで、憧れているからまねしたいのでしょう。私たちも、キリストのまねをしましょう。キリストの正義と公正、慈しみとまことを。私たちの大好きなイエスさまのまねを。神さまは少しずつでも、私たちを本当にキリストに似たものにしてくださるのですから。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。(詩編89:15)
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。(コロサイ3:12)
主イエス・キリスト。この方こそ私たちのまことの王です。「正義と公正は王座の礎」と書かれています。王キリストの座っておられる王座の礎は、正義と公正。キリストという王さまは、正義と公正によって私たちを治める。
それだけではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」これも驚くべき言葉だと思います。多くの場合、私たちの知っている正義と公正は、とても冷たいものになるからです。血の通っていない正義、人の息づかいを失った公正。ところがキリストはそうではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」王キリストにおいては、正義と公正、そして慈しみとまことが矛盾しないのだ、と聖書は言います。
まさに、福音書が伝えるキリストはそういう方です。正義と公正、慈しみとまこと。キリストは余すところなくそれらを示してくださいました。そうであるからこそ、キリストは十字架にかかったのだということに他ならないのではないでしょうか。
このお方の御前で、聖書は私たちに命じます。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。」神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、と言います。キリストの王としての御支配に生きる者として(それは、言い方を変えれば神の国に生きる者として、ということです。)、私たちは深い慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と言います。一言で言えば、キリストのまねをしよう、ということです。私たちはキリストのまねをして生きていく。
野球の好きな息子が、一所懸命に選手のまねをしています。投げるまねや打つまねをします。想像の翼を拡げている。好きで、憧れているからまねしたいのでしょう。私たちも、キリストのまねをしましょう。キリストの正義と公正、慈しみとまことを。私たちの大好きなイエスさまのまねを。神さまは少しずつでも、私たちを本当にキリストに似たものにしてくださるのですから。