2022年12月3日土曜日

2022年12月3日の聖句

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。(詩編102:20~21)
もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)

神様は聖なるお方。天にまします方。この世界の造り主。他に、この方に並び立つものは一つもないお方。ですから、神様の御前にある人々は皆畏れました。モーセは、燃える柴を前にして神と出会い、この方を畏れました。預言者イザヤは、天におられる神を見て、自分は滅びなければならないと言っておののきました。ソロモン王が建築した神殿の荘厳さは、聖なる神様の御前にある畏れを証言しています。
聖。それは神様の御性質です。私たちからは生まれません。だから、私たちには何が聖なのかが分からない。私たちに分かるのは汚れだけです。神様の御前にいる自分の汚れしか分からない。そして、この方は自分とは全く異なる聖なるお方だと知るとき、私たちは畏れます。恐れおののいて、神様の御前にひれ伏します。聖なる神様の御前で、礼拝が始まります。
しかし神様は、私たちからただ隔絶しているだけの方ではありません「主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。」神は天から地に目を注いでくださる。そして、呻く捕らわれ人をご覧になってくださるお方です。
「見る」と言ってもいろいろな見方があります。最近はサッカーの話題が豊かですが、サッカーの試合を見ながら名解説を聞いていると、素人が全然気付きもしないような試合のポイントを見事に示してくれます。漫然と眺めていても気づかなくとも、見る人が見ると分かることがある。神様のまなざしは、呻く捕らわれ人に注がれます。私たちの誰も気づかない片隅にも、主の御目が注がれ散る。しかも、この方は聖なる方。何者も並び立つことのできない方。唯一の方。その方が、一人の捕らわれ人をご覧になって、解き放つために立ち上がってくださるのです。そしてそのために、主はご自分の独り子を呻く私たちのところへ送ってくださったのです。
「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。」私たちは、神の子イエス・キリストによって自由にして頂きました。そのために天から目を注いだ神様は、私たちのところへキリストを送ってくださいました。聖なるお方が私たちを救うためにここまで来てくださったのです。だから、あなたは救われた。神は共におられる。聖書はそう証言します。

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14) 夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3) 姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。...