あなたが贖われた私の唇と私の魂は喜び、あなたをほめたたえます。(詩編71:23)
喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に、感謝するように。(コロサイ1:11~12)
聖書が私たちに伝えるメッセージ、聖書が私たちに宣言する福音は、私たちの頑張りに応じて神さまが私たちを救ってくださる、というものではありません。あるいは、まずもって私は罪深く、どうしようもないけれど神さまは救ってくださる、というものでもない。私よりも先に神さまがおられ、私を救い、私を既に光に中に置いてくださった。聖書はその事実を語ります。「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたを預かれるようにしてくださった御父」。父である神が私を光に中にいれてくださった。最初にあるのは私の頑張りではないし、私の駄目さでもなくて、神さまの光のすばらしさです。私たちは、神の光の中にすでに照らされている私として、自分を知ることができる。それが聖書が私たちに告げていることです。
「あなたが贖われた私の唇と私の魂」と言っています。神が私の唇、私の魂を贖ってくださった。「贖う」というのは、神さまがご自分のものとするということです。私の唇も魂も、神さまはご自分のものとしてくださった。もはや私は神さまのもの。魂というのは、深い人間存在そのものでしょう。しかも、弱くてもろい、壊れてしまいそうな人間。そういう私を神さまはご自分のものとしてくださった。私のまるごと、全部を。神が贖ってくださった唇をもって、そして神が贖ってくださった魂のすべてをもって、私たちは神をほめたたえ、神を賛美します。喜びをもって、御父に感謝せよ!聖書は私たちにそう呼びかけるのです。
今日も、いろいろな出来事が起こると思います。しかしどこに行こうとも、何をしていようとも、私たちは神の光の中にいます。神が光を照らして下さっているとおっしゃるのだから、それは確実です。神の光の中、神のものとされた唇で私たちは何を語るのか。神がご自分のものとしてくださった私の存在の根底から、神を賛美し、神に感謝する一日を過ごしていきたい。そう願います。今日も祝福がありますように。
喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に、感謝するように。(コロサイ1:11~12)
聖書が私たちに伝えるメッセージ、聖書が私たちに宣言する福音は、私たちの頑張りに応じて神さまが私たちを救ってくださる、というものではありません。あるいは、まずもって私は罪深く、どうしようもないけれど神さまは救ってくださる、というものでもない。私よりも先に神さまがおられ、私を救い、私を既に光に中に置いてくださった。聖書はその事実を語ります。「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたを預かれるようにしてくださった御父」。父である神が私を光に中にいれてくださった。最初にあるのは私の頑張りではないし、私の駄目さでもなくて、神さまの光のすばらしさです。私たちは、神の光の中にすでに照らされている私として、自分を知ることができる。それが聖書が私たちに告げていることです。
「あなたが贖われた私の唇と私の魂」と言っています。神が私の唇、私の魂を贖ってくださった。「贖う」というのは、神さまがご自分のものとするということです。私の唇も魂も、神さまはご自分のものとしてくださった。もはや私は神さまのもの。魂というのは、深い人間存在そのものでしょう。しかも、弱くてもろい、壊れてしまいそうな人間。そういう私を神さまはご自分のものとしてくださった。私のまるごと、全部を。神が贖ってくださった唇をもって、そして神が贖ってくださった魂のすべてをもって、私たちは神をほめたたえ、神を賛美します。喜びをもって、御父に感謝せよ!聖書は私たちにそう呼びかけるのです。
今日も、いろいろな出来事が起こると思います。しかしどこに行こうとも、何をしていようとも、私たちは神の光の中にいます。神が光を照らして下さっているとおっしゃるのだから、それは確実です。神の光の中、神のものとされた唇で私たちは何を語るのか。神がご自分のものとしてくださった私の存在の根底から、神を賛美し、神に感謝する一日を過ごしていきたい。そう願います。今日も祝福がありますように。