2023年5月17日水曜日

2023年5月17日の聖句

主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。(1テサロニケ5:9~10)

後に教会の改革者と呼ばれるようになった修道士マルティン・ルターは、自分の罪を真剣に問い、修行に明け暮れました。修道院で清貧と貞潔を厳しく徹底し、それでも沸き起こる自分の罪に苦しみ、懺悔をし、また修行に没頭しました。そのような日々についてルターはこのように言っています。「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神の前でまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。」「私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。……神は福音をもって苦痛に苦痛を加え、福音によって、その義と怒りをもって、私たちを脅される……」。晩年になって、ルターは修行の日々をそのように述懐しています。
なかなかルターほど真剣に自分の罪を問い、それに苦しむということはないかもしれません。しかし、自分の罪やそれに対する当然の神の怒りを本当に真剣に問うならば、ルターと同じ思いにならざるを得ないのではないでしょうか。
私たちにできることは、赦してくださいと祈ることだけです。自分で神さまの前に義を立てることは、真剣になればなるほど、不可能なことです。「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。」神が怒りに燃え、罪人に相応の報いをお与えになるのなら、一体誰が生き延びることができるでしょうか。絶対に、私たちは生き長らえることはできません。
ところが、修道士ルターが考えていた福音と、聖書が本当に教えていた福音とは、違うものでした。「なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。」本当は、聖書は、神が私たちを怒りではなく救いに定めてくださったと言っている。本当のところ、どうしようもない罪人でしかない私を、キリストは愛し、救ってくださったと聖書は言います。ただ神の恵みによってのみ、私は救われた!そのことを知り、ルターの世界が変わりました。神の恵みを知って、ルターは神を愛する者に変わった。私たちも同じ福音にあずかっています。キリストの憐れみと愛が今日もあなたにありますように。

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、ど...