すべて肉なる者は知るようになる。私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。(イザヤ49:26)
(イエスの言葉)私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)
主イエス・キリストご自身の命令です。すべての民に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ、と主は言われます。洗礼は、今ここにおける神の救いので出来事です。洗礼によって私たちはキリストに接ぎ木されます。洗礼によって私たちはもはや外国人でも寄留者でもなく、神の民の一員にされます。洗礼によって私たちは神の家族にされます。洗礼の水によって古い私は死に、今や新しい命に生きている。洗礼によって、私たちはキリスト弟子とされたのです。すべては、キリストのご命令によって始まりました!
洗礼の命令を授けるにあたって、キリストは「私は天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃいました。キリストはご自分が神から授けられた権能に基づいて、私たちに救いを宣言し、その徴として洗礼をお授けになる。
このキリストの権能について、今日与えられている旧約の御言葉ではこのように言っています。「すべて肉なる者は知るようになる。私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。」キリストは私たちの権威ある主、救い主、贖い主。
キリストが権威ある救い主ということは、この救いが何よりも確かだということではないでしょうか。私たちはキリストを信じても救われたのか救われていないのかよく分からない、ということはありえない。キリストの救いは確かです。永遠の神さまの御前での確かな救いです。
改革者マルティン・ルターは、信仰の試練に遭い、揺らぐとき、自分の心に言い聞かせたそうです。「マルティン、お前は洗礼を受けている。お前は洗礼を受けている。」自分自身がどんなに不確かで、揺れ動いてしまうとしても、自分自身がどんなにあやふやだったとしても、洗礼によって付けられた徴は決して消えません。キリストの確かな救いの徴なのです。神の出来事がこの私にも起こっている。私たちはそのことを信じます。自分に授けられた洗礼を思い起こして!
(イエスの言葉)私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)
主イエス・キリストご自身の命令です。すべての民に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ、と主は言われます。洗礼は、今ここにおける神の救いので出来事です。洗礼によって私たちはキリストに接ぎ木されます。洗礼によって私たちはもはや外国人でも寄留者でもなく、神の民の一員にされます。洗礼によって私たちは神の家族にされます。洗礼の水によって古い私は死に、今や新しい命に生きている。洗礼によって、私たちはキリスト弟子とされたのです。すべては、キリストのご命令によって始まりました!
洗礼の命令を授けるにあたって、キリストは「私は天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃいました。キリストはご自分が神から授けられた権能に基づいて、私たちに救いを宣言し、その徴として洗礼をお授けになる。
このキリストの権能について、今日与えられている旧約の御言葉ではこのように言っています。「すべて肉なる者は知るようになる。私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。」キリストは私たちの権威ある主、救い主、贖い主。
キリストが権威ある救い主ということは、この救いが何よりも確かだということではないでしょうか。私たちはキリストを信じても救われたのか救われていないのかよく分からない、ということはありえない。キリストの救いは確かです。永遠の神さまの御前での確かな救いです。
改革者マルティン・ルターは、信仰の試練に遭い、揺らぐとき、自分の心に言い聞かせたそうです。「マルティン、お前は洗礼を受けている。お前は洗礼を受けている。」自分自身がどんなに不確かで、揺れ動いてしまうとしても、自分自身がどんなにあやふやだったとしても、洗礼によって付けられた徴は決して消えません。キリストの確かな救いの徴なのです。神の出来事がこの私にも起こっている。私たちはそのことを信じます。自分に授けられた洗礼を思い起こして!