(神の言葉)「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」(イザヤ57:16)
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。(2コリント5:19)
北森嘉蔵という先生がおられます。『神の傷みの神学』という本を書きました。私は面識がありませんが、私の卒業した神学校の先生を昔なさっていました。サウロの回心を伝える使徒言行録第9章の説教を北森先生がされた、その録音を聞いたことがあります。サウロが激しくキリスト者たちを迫害していたときのことです。主イエスは光の中でサウロの前に現れた。サウロは「あなたはどなたですか」と言うしかない。そこでイエスは「よくもやってくれたな」とか「お前を恨んでいるぞ」などとはおっしゃらなかった。ただ、「なぜ、私を迫害するのか」と事実だけを伝え、また「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」と、次にすべきことを教えてくださった。もしもイエスが恨み辛みを述べていたら、この時の出来事は愁嘆場になっただろう。しかしイエスはそうではなく、これからするべきことだけを教えてくださった。そして、北森先生はおっしゃいました。赦すというのは、忘れることだ。相手の不義や罪、相手への恨みを忘れること。思い出していつまでも言っていては赦しにならない。忘れて、これからに向かうこと。それが赦すということ。サウロは主イエスに赦して頂いた。
「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」神がキリストにあって私たちに与えてくださったのは、和解の言葉です。私たちの罪の責任を問い、責任を取らせ、やっつけるための言葉ではありません。和解です。私たちのために神が手を伸ばしてくださった。そのために、神様はおっしゃいます。「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」神様はいつまでも争わず、永遠に怒ることもなさらない。私たちのために、私たちの不義や罪を忘れ、赦してくださる。私たちのために和解の手を伸ばしてくださる。だから、私たちも生きられる。
主イエスさまの和解の福音に、私たちは今日送り出されています。和解や赦しが私たちの人生の彩りです。罪や自己責任、糾弾ではない。愁嘆場が私たちの生きるべき場ではない。そのような運命に落ち込む私たちのための神の赦しの宣言、和解の福音こそが、私たちへの神様からのラブコールです。
神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。(2コリント5:19)
北森嘉蔵という先生がおられます。『神の傷みの神学』という本を書きました。私は面識がありませんが、私の卒業した神学校の先生を昔なさっていました。サウロの回心を伝える使徒言行録第9章の説教を北森先生がされた、その録音を聞いたことがあります。サウロが激しくキリスト者たちを迫害していたときのことです。主イエスは光の中でサウロの前に現れた。サウロは「あなたはどなたですか」と言うしかない。そこでイエスは「よくもやってくれたな」とか「お前を恨んでいるぞ」などとはおっしゃらなかった。ただ、「なぜ、私を迫害するのか」と事実だけを伝え、また「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ」と、次にすべきことを教えてくださった。もしもイエスが恨み辛みを述べていたら、この時の出来事は愁嘆場になっただろう。しかしイエスはそうではなく、これからするべきことだけを教えてくださった。そして、北森先生はおっしゃいました。赦すというのは、忘れることだ。相手の不義や罪、相手への恨みを忘れること。思い出していつまでも言っていては赦しにならない。忘れて、これからに向かうこと。それが赦すということ。サウロは主イエスに赦して頂いた。
「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」神がキリストにあって私たちに与えてくださったのは、和解の言葉です。私たちの罪の責任を問い、責任を取らせ、やっつけるための言葉ではありません。和解です。私たちのために神が手を伸ばしてくださった。そのために、神様はおっしゃいます。「私はいつまでも争うことはなく、永遠に怒ることもない。」神様はいつまでも争わず、永遠に怒ることもなさらない。私たちのために、私たちの不義や罪を忘れ、赦してくださる。私たちのために和解の手を伸ばしてくださる。だから、私たちも生きられる。
主イエスさまの和解の福音に、私たちは今日送り出されています。和解や赦しが私たちの人生の彩りです。罪や自己責任、糾弾ではない。愁嘆場が私たちの生きるべき場ではない。そのような運命に落ち込む私たちのための神の赦しの宣言、和解の福音こそが、私たちへの神様からのラブコールです。