2023年11月2日木曜日

2023年11月2日の聖句

主なる神は、弟子が持つような舌を私に与えた。
疲れた者たちに、時宜に適って言葉を語るすべを弁えるようにと。(イザヤ50:4)
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。(マタイ25:39)

疲れた者に時宜に適って語るように、神が私に舌を与えてくださったと言います。疲れた人や傷ついた人に寄り添い、適切な時に適切な言葉で語りかけ、本当の意味で慰めになることは簡単なことではありません。神がそのための舌を与えてくださる、と今日の御言葉では言っています。確かに、これまで何度不適切なタイミングや不適切な言葉のために人を傷つけてしまったか分からないような者にとって、神が舌を授けてくださるのでなければ、一体どうして良き言葉を語りうるのか、途方に暮れるばかりです。
メンノ・ジモンズという人がこのように言っているそうです。「まことの教師とは、キリストと共に、散らされた者たちを集め、傷ついた者に包帯をし、病気の者を癒やす人たちのことです。」この「まことの教師」というところを、「まことのキリスト者」と言い換えてもよいと思います。ただ、自分の言動が散らされた者を集め、傷ついた者に包帯をし、病気の者を癒やすようなものであるのかと考えると、あまりにも申し訳ない思いにならざるを得ない。神が舌を与えてくださるのでなければ、どうしてこのような慰めの人になり得るのでしょうか。
今日の新約聖書の御言葉にはこのようにあります。「いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」この言葉に、主なる神様はこの最も小さな者の一人にしたことは私にしたことであるとお答えになります。とても大切なことは、ここでこのように言った者は、一体自分がいつ神様の御心に適うような愛に生きられたのか、自覚もないということです。本人も自覚しないような小さな愛の業を神が憶えていてくださる。そして、その小さな愛の業をなす舌も手も神が与えてくださったものです。神は憐れみ深いことに、自分でも気がつかないような小さな愛の業に私たちを生かしてくださるし、同時にそれを憶えてくださるお方です。この神を信じて、大胆に今日の日を生きていきたいと願います。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...