2024年1月11日木曜日

2024年1月11日の聖句

私はあなたを苦難の炉で試みた。(イザヤ48:10)
たゆまず祈りなさい。(コロサイ4:2)

炉で金属を精錬し、より純度が高くて美しいものとする。まるでそのようにして、神さまが私たちを苦難という炉で試みた、と言います。しかし、金属をただ単に炉の中に入れておくだけでは精錬されません。鍛冶がそれをしっかり鍛えなければ、ただ単に溶けてしまうだけです。私たちを炉の中で鍛えるのは祈りだ、と今日の御言葉は言っているのではないでしょうか。「たゆまず祈りなさい」と書かれているとおりに。
私は今日の御言葉を読んで、少し胸のいたくなるような気持ちになりました。よく分かるのです。祈りがどんなに大切で、どんなに必要なことなのか。ところが同時に私は知っている。自分がどんなに祈りから遠く、祈ることに怠惰なのかをも。
炉の譬えは本当に鋭いと思います。苦難の中で祈り続けるのはしんどいことです。祈ること自体が辛くなってしまうことが私たちにはあるのではないでしょうか。炉で金属を精錬するためには大変な熱が必要です。そのためにはたくさんの空気を送り込まなければならない。きっと、祈りは私たちにとっては酸素です。酸素がなければ炉の炎が上がらないように、祈りがなければ私たちは練りきよめられない。しかし、そう分かっていても、ただでさえ熱くなっている炉に酸素を送り込むのは勇気がいる。苦難の中で祈るのは、時に、勇気が必要です。その事柄に向き合わねばなりません。それに、もしかしたら私たちには、祈っても空しいのではないかという不安もあるかも知れない。祈るというのは、勇気を持って一歩踏み出さないわけにはいかないことです。それには勇気が必要だし、怠惰に打ち勝つ心も必要。そのようなことを考えると、不信仰な告白ですが、私は少し辛くなってしまいます。
しかし、もしかしたら私は少し思い違いをしているのかも知れません。祈りは神が与えてくださるものです。この口がたった一言神さまをお呼びするとしたら、それは聖霊のお働きです。神が祈りの言葉を与え、また、祈りたいという心を与えてくださる。<私が>祈るのですが、それは<神ご自身が>私の中で祈っていてくださるということでもある。私たちはそうやってこの私の内に働いていてくださる神によって祈りを与えられ、そのようにして神を求めて祈ることによってでしか、神の御前に精錬されることがないのかもしれません。私に信仰を与えるのも、その信仰を育むのも、神ご自身が私の内で行っていてくださる奇跡に他ならないのだと思います。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...