2024年1月19日金曜日

2024年1月19日の聖句

貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。(箴言30:8)
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6:7~8)

先日、祈りの中で主イエスさまの「貧しい人々は、幸いである」という御言葉に触れました。主イエス・キリストの弟子は、貧しいです。主ご自身が貧しくなられたから、主に従う私たちも貧しくなる。この世は富を礼賛します。力ある者、名声ある者が重んじられる。主イエスの時代の祭司長や律法学者たちも、福音書の記述を読むかぎりではあまり貧しいようには見えません。むしろ富んでいたのだと思います。しかし、キリストの弟子は貧しかった。キリストに従ったから。主イエスのために放棄と困窮の中で生き始めた。主イエスはそんな貧しい者たちに向かっておっしゃいました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」宝を神の国にだけ持つ者、貧しくなられたキリストに従う者、十字架のお姿をご自身の栄光とされた方を主と信じる者。そういう弟子たちに、主イエスは幸いだとおっしゃいます。世の富を持ち、人々からの名声を受け、力ある者におっしゃったのではない。貧しくて弱い御自分の弟子に、主イエスの福音の言葉が響いています。
私たちは何かを手に入れれば、もっと欲しくなります。もっと持っていればもっともっと安心だと思ってしまいます。主イエスも富みも、両方欲しくなってしまう。しかし私たちは何も持たずに生まれてきたし、何も持たずに神の御許に帰る。しかし神が私たちを絶対に養ってくださる。だから、私たちは神が与えてくださる分を、これこそ自分の分に応じて神が下さったと信じ、感謝して受ける。主イエスさまにある貧しさに、主に従う者の受ける分があると信じているからです。
主イエス・キリストの祝福は、この世のもたらす祝福とは違います。へりくだり、貧しくなられ、十字架にかけられた方の祝福。これこそ、私たちを罪から救うことのできる祝福、神の国という永遠の救いに向かう祝福です。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...