2024年1月18日木曜日

2024年1月18日の聖句

エリヤは言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従いなさい。もしバアルが神であるならバアルに従いなさい。」(列王記上18:21)
(イエスの言葉)あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)

主イエス・キリストも、預言者エリヤも、私たちに選択を求めます。神に仕えるのか、富みに仕えるのか。主に従うのか、バアルに従うのか。神にも富にも仕えることはできない。主にもバアルにも従うことはできない。聖書は私たちの前に立ちはだかるようにして、そう言います。私たちに問います。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。」結局あなたの神は誰なのか、ということなのでしょう。
私は、性格的なことなのかも知れませんが、できれば曖昧にしたまま態度を保留したいというようなずるい考えを持っていることを告白しなければなりません。選択というのは、神か富か、主かバアルかとどちらか一つだけを選ぶこと。そして同時に、選ばなかったほうは私の神ではないと、態度をはっきりさせることです。しかしはっきりさせることは、恐ろしいことです。自分の生き方がそこで決まってしまう恐ろしさです。
今日の御言葉は本当に厳しいです。しかし、ただ単に厳しいだけの言葉ではないと思います。今朝の新約聖書の御言葉はマタイによる福音書第6章24節ですが、これに続く25節で主イエスはこのようにおっしゃいます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。」それらのことは神が与えてくださるから大丈夫だ、と主イエスはおっしゃいます。神が備えてくださるのだから、思い煩ってはならない。神と富とに兼ね仕える必要はないのです。私の必要の全ては、神がよく知ってくださっていて必要な物を与えてくださる。主イエスはそうおっしゃいます。今日の御言葉はとても厳しい言葉ですが、それ以上に、私たちへの神の慈しみへの圧倒的な信頼に裏打ちされた言葉です。神は私たちが神と富とに兼ね仕える必要なんてさらさらないほど、確かに私たちを養ってくださる。その絶対的な約束が、決断を迫る今日の御言葉を支えています。
今日の御言葉は、主なる神に向かう信頼への招きです。今日の御言葉は、主なる神さまの私たちを守り抜こうというご決意のもとに語られたのです。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...