2024年2月4日日曜日

2024年2月4日の聖句

今週の聖句:
今日、あなたがたが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
私を義とする方が近くにおられる。誰が私と争いえようか。(イザヤ50:8)
イエスは女に言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」(ヨハネ8:10~11)

この女は姦淫の現場で捕まったとして、主イエスのところにまで引きずり出された人です。律法では石打にするように定められていた。人々は、主が彼女を石打にしろと言うかどうか、固唾をのんで見つめていました。しかし主は何もおっしゃらない。人々がしつこく問い続けるので、主イエスはお答えになります。「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい。」
主イエスのお言葉は、他人の罪をあげつらう人の醜悪さを浮き彫りにします。自分のありさまを忘れて他人を裁き、この人は罪人だ、死んで当然だと喚く自分のなんと醜いことか。恐ろしいことに、これは私たちの物語です。私たちはその事実に気付くことができません。しかし、主イエスは人々から裁かれる一人の女の味方になってくださいました。主イエスがあのようにおっしゃって、一人、また一人と彼女を取り囲む人がいなくなり、最後には主イエスと女の二人だけになったとき、主はおっしゃいました。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、誰も。」彼女が答えると主イエスは重ねて言われた。「私もあなたを罪に定めない。」
立ち止まって考えます。主イエスは、最低最悪の罪人の味方になってくださるお方です。そうであるからこそ、この私の味方にさえなってくださるお方です。人の罪をあげつらい、裁き、醜い姿をさらしているこの私。私こそ、石打にされねばならない罪人です。しかし主はなお私のためにも、罪からの解放の言葉を語りかけてくださっているのではないでしょうか。主が私の味方でもいてくださる。その事実が私たちの原点なのです。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...