(モーセの言葉)あなたがたは、私が今日あなたがたに証言した言葉をすべて心に留めなさい。これは、あなたがたにとって空しい言葉ではなく、あなたがたの命だからである。(申命記32:46,47)
命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)
神の言葉。命の言葉。私たちを生かす霊の言葉。私たちは、聖書を通して語られる福音の言葉に聞き、それに従います。ここにこそ私たちを生かす命があると信じているからです。
今日の旧約は申命記です。申命記は、エジプトから神に導き出された神の民が40年間の荒野の旅路を終え、これから約束の地に入っていこうとするときにモーセが語った説教です。ですから「私が今日あなたがたに証言した言葉」というのは、申命記全体ということになりますし、ひいては聖書に書かれている一つひとつの御言葉と言ってもいいのではないでしょうか。聖書の御言葉、聖書が告げる福音の言葉。これこそ私たちにとって命そのものであり、空しいものではない。
そのことを、今日の新約では肉の言葉と霊の言葉というところから捉えています。肉というのは、生来の私たちに属するものと言い換えることができると思います。私たちから生まれてくる言葉。それが例えどんなに「良い言葉」だとしても、肉である私たちに属する限り、命を与えるものではない。この世には良い言葉が溢れています。しかしそれはどんなに好ましく、魅力的に聞こえたとしても、神の言葉ではないし、命の言葉でもない。
キリストの言葉こそ、霊の言葉です。霊の言葉は肉なる私たちではなく神ご自身が生まれる言葉。聖書は私たちにそういう言葉を「福音」として届けている。
御言葉に聞きましょう。どのようなときにも、神を信頼して。聖書の語りかける御言葉にこそ私たちの救いがあり、私たちの命がある。神の言葉こそ私たちの道の光であり、私たちを照らす救いの光です。
命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)
神の言葉。命の言葉。私たちを生かす霊の言葉。私たちは、聖書を通して語られる福音の言葉に聞き、それに従います。ここにこそ私たちを生かす命があると信じているからです。
今日の旧約は申命記です。申命記は、エジプトから神に導き出された神の民が40年間の荒野の旅路を終え、これから約束の地に入っていこうとするときにモーセが語った説教です。ですから「私が今日あなたがたに証言した言葉」というのは、申命記全体ということになりますし、ひいては聖書に書かれている一つひとつの御言葉と言ってもいいのではないでしょうか。聖書の御言葉、聖書が告げる福音の言葉。これこそ私たちにとって命そのものであり、空しいものではない。
そのことを、今日の新約では肉の言葉と霊の言葉というところから捉えています。肉というのは、生来の私たちに属するものと言い換えることができると思います。私たちから生まれてくる言葉。それが例えどんなに「良い言葉」だとしても、肉である私たちに属する限り、命を与えるものではない。この世には良い言葉が溢れています。しかしそれはどんなに好ましく、魅力的に聞こえたとしても、神の言葉ではないし、命の言葉でもない。
キリストの言葉こそ、霊の言葉です。霊の言葉は肉なる私たちではなく神ご自身が生まれる言葉。聖書は私たちにそういう言葉を「福音」として届けている。
御言葉に聞きましょう。どのようなときにも、神を信頼して。聖書の語りかける御言葉にこそ私たちの救いがあり、私たちの命がある。神の言葉こそ私たちの道の光であり、私たちを照らす救いの光です。