私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。(イザヤ65:18)
神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされているからです。(1テモテ4:4~5)
今日私たちに与えられているのは、素晴らしい解放の言葉です。この世界にあるもの、私たちの命をつなぐために必要な物。それらはすべて良いものなのであって、感謝して受けるなら捨てるべきものは何もない、と言います。私たちの肉体、食うこと飲むこと、そういったものは現実的だけど少しレベルの低い、必要悪とまでは言わなくとも信仰とは関係のない事柄、と何の気なしに思ってしまうことはないでしょうか。あるいは逆に、信仰の事柄は娑婆のこととは違う、非現実的で抽象的なことだ、と考えてしまうことはないでしょうか。今日の御言葉はそのような勘違いに「否」とはっきりと言っています。
神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされているからです。(1テモテ4:4~5)
今日私たちに与えられているのは、素晴らしい解放の言葉です。この世界にあるもの、私たちの命をつなぐために必要な物。それらはすべて良いものなのであって、感謝して受けるなら捨てるべきものは何もない、と言います。私たちの肉体、食うこと飲むこと、そういったものは現実的だけど少しレベルの低い、必要悪とまでは言わなくとも信仰とは関係のない事柄、と何の気なしに思ってしまうことはないでしょうか。あるいは逆に、信仰の事柄は娑婆のこととは違う、非現実的で抽象的なことだ、と考えてしまうことはないでしょうか。今日の御言葉はそのような勘違いに「否」とはっきりと言っています。
聖書の舞台になったユダヤの側にギリシアという国がありました。素晴らしい哲学や文化が発展した国です。その哲学の営みは、日常の労働をさせる奴隷たちの働きの上に成り立っていました。労働は卑しいものであって奴隷がすること。労働から解放された自由人が哲学の営みをする。しかし聖書はそのようには考えていません。この世界にあるすべてのものは神がお造りになったのだし、働くということは神に与えられた使命です。「私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。」神はそう言ってくださいます。
この世界にあるものはすべて神の慈しみの中にあります。私たちの営み、人間の手が作り出したものも、「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされている」のです。私たちは毎日の営みを神に献げます。私の命、私の生きるために必要な物。そのような物に関心を持ち、慈しみをもって養ってくださる方に信頼して、私たちは今日を生きていきます。
この世界にあるものはすべて神の慈しみの中にあります。私たちの営み、人間の手が作り出したものも、「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされている」のです。私たちは毎日の営みを神に献げます。私の命、私の生きるために必要な物。そのような物に関心を持ち、慈しみをもって養ってくださる方に信頼して、私たちは今日を生きていきます。