(イザヤの言葉)「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の中に住んでいる。」(イザヤ6:5)
(パウロの手紙)「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。」(1テモテ1:13)
預言者イザヤが「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の中に住んでいる」と言っています。「唇が汚れている」という言い回しを普段私たちはあまりしないように思います。しかし、私たちにもよく分かる言葉ではないでしょうか。使徒パウロも冒瀆とか、傲慢とか言っています。私たちの唇にもそういう言葉が乗っているのではないか。
(パウロの手紙)「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。」(1テモテ1:13)
預言者イザヤが「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の中に住んでいる」と言っています。「唇が汚れている」という言い回しを普段私たちはあまりしないように思います。しかし、私たちにもよく分かる言葉ではないでしょうか。使徒パウロも冒瀆とか、傲慢とか言っています。私たちの唇にもそういう言葉が乗っているのではないか。
ヤコブの手紙にこのような言葉があります。「私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙3:9,10)。厳しい言葉です。思い当たる節があまりにも多すぎます。神を賛美したのと同じ舌で人を呪っているなら、それは神に対する冒瀆です。私の舌も唇も、汚れている。
ですので、イザヤが「ああ、私は滅んでしまう」と言っているのは、本当にそう言わないわけにはいかない、ということです。こんな汚れた唇の私は滅びるしかない。しかし、私たちはさらにその先を知っています。パウロは言います。「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。」私は唇の汚れた者。しかし、そんな私が神の憐れみを受け、その汚れから清められている。パウロはそのように、驚くべき神の御業を語り始めます。だからこそ、私たちはこの口から腐った言葉ではなく生きた言葉が、神をほめたたえ、また隣人を建て上げる愛の言葉が語り出されることを願います。願わくばキリストの愛が響く言葉にならせてください、私を憐れみ、この口を日ごとに清めてください。そのように祈り、日ごとの悔い改めを献げ、今日という日を歩んでいきます。
ですので、イザヤが「ああ、私は滅んでしまう」と言っているのは、本当にそう言わないわけにはいかない、ということです。こんな汚れた唇の私は滅びるしかない。しかし、私たちはさらにその先を知っています。パウロは言います。「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、憐れみを受けました。」私は唇の汚れた者。しかし、そんな私が神の憐れみを受け、その汚れから清められている。パウロはそのように、驚くべき神の御業を語り始めます。だからこそ、私たちはこの口から腐った言葉ではなく生きた言葉が、神をほめたたえ、また隣人を建て上げる愛の言葉が語り出されることを願います。願わくばキリストの愛が響く言葉にならせてください、私を憐れみ、この口を日ごとに清めてください。そのように祈り、日ごとの悔い改めを献げ、今日という日を歩んでいきます。