2017年7月23日日曜日

ヨハネによる福音書4:7~26「主イエスが共におられる」

サマリヤの女性が井戸に水を汲みに来ました。誰もいない正午の時間です。重い足取りです。あえて誰とも会わない時間を狙ってサマリヤの女性は来たのですが、一人の男性との出会いをしました。その方は「水をのませてください」と言います。ユダヤの教師らしき人物が声をかけてくるなんてユダヤ人から蔑まれているはずの自分に声をかけてくるこの人は、いったい何を言おうとしているのだろう。女性は戸惑いました。
 主イエスとの出会いというのは、私たちも戸惑いから始まるということがあるかもしれません。なんでこんな言葉を私にかけるのだろう。ときに反発したくなることもある。けれども主イエスは私たちが願うよりも先に、私たちと共に歩みを始められます。
サマリヤの女性はこの男性と対話を重ねます。話を聞いていくとどうやらこの男性は「生きた水をあなたに与えることができる」と言っているらしい。このサマリヤの女性は、本当は渇いておりました。喉の渇きというより、人との親しさという面で渇いていた。主イエスは言われます。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」この質問は、サマリヤの女性に突き刺さりました。この女性は、以前に5人の夫がいた。今も連れ添いがいるが夫ではない。おそらく周りの人々からは後ろ指をさされるような存在だったのでしょう。「あの女は不道徳な女だ」だから、この女性は誰にも会わないような時間帯に水を汲みに来た。主イエスは一見すると関係の無いような、しかし、この女性の抱えている問題を見つめられた。「あなたの夫をここに呼んできなさい」。女性は「わたしには夫はいません」と答えます。主イエスはその応答を「ありのままを答えた」と言います。「真理」という意味の言葉です。「あなたは真理・真実を言った」。
ポール・トゥルニエという信仰をもった精神学者が書いた『強い人と弱い人』という本があります。そこには、このように書いてあります。
心理学的にみると、人は強い反応をする人、弱い反応をする人と分けることができるかもしれない。強い人は防衛的、攻撃的、プレッシャーに強い。弱い人は、抑うつ的で自信が無い。しばしば、精神医学では強い反応を持てるように目指して、ケアが行われる。しかし、これは本質的な解決にならない。本当の解決は信仰による解決である。罪の告白をした者が、自分が神と共にいると信じる意識の中で、人と接すること。これが本当の解決なのだ。
サマリヤの女性も「わたしには夫はいません」と告白をしました。罪の告白です。その中で救い主と出会いました。そして人々の前に出て行く。私たちも、自分のありのままを打ち明けることができる。そこで救い主に出会うことができる。恐れから自由になります。この自由をもって、今週も主イエスと共に生きていくものでありたいと願います。

2017年7月20日木曜日

詩編第78編「負の歴史から目を離さずに」

先祖が語り伝える「わたしの民」の歴史、出エジプト後の40年を回顧する。すぐ指摘するのは先祖が「頑なな反抗の世代」だったこと。かつての西独の大統領フォン・ヴァイツゼッカーを思い起こす。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。」ドイツの敗戦40年を覚える演説の一節だ。神への反逆を重ねる歴史からどうやって救われるのか。詩編は王ダビデを喜ぶ。我らはダビデの家から出た真の王イエスにより頼むのだ。

2017年7月16日日曜日

ローマの信徒への手紙10:5〜13「神を信じる者は失望しない」

「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」という言葉があります。この「区別」という言葉を他の翻訳では「差別」と訳していました。ユダヤ人、ギリシア人だけではありません。私たちはあの人はふさわしい、あの人はダメといろいろな差別をします。あの人はユダヤ人、ギリシア人、この人は日本人、米国人、中国人、台湾人・・・と選別します。今から2年ほど前、コロンビアで開催されたカンバーランド長老教会の総会に出席したときのことです。当時も今も、米国社会の大きな問題は不法移民問題です。そのことが議場で取り上げられていました。彼らを教会は受け入れるべきなのか、と。若者も含めて、議場では白熱したやりとりが交わされていました。最終的に、「不法」移民という行政の言葉によって分類するのは止めよう、私たちは誰であっても受け入れようということになりました。米国社会にあってキリスト者として生きる彼らの判断を誇らしく思いました。神の前で私たちは一体何者なのかと問うたとき、あらゆる区別や差別は相対的なものに過ぎなくなります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。これが福音です。区別がないから私たちも救われたのです。米国では昨年の選挙で移民にあまり寛容ではない主張をした人が大統領に選ばれました。今、私たちの米国にいる姉妹教会はどう考えているのでしょうか。きっと同じ確信に生き、隣人に福音を宣べ伝えていることでしょう。福音に生きる者はときに社会の価値観と違うことを語り出します。「主を信じる者は、誰も失望することがない」と書いてあります。この「失望」という言葉は、他の翻訳を見ると「辱めを受ける」となっています。主イエスを信じて恥をかくことはない、と言うのです。なぜ?主イエスは私たちを裏切ることが決してないからです。そうは言っても、日々の思い煩いがあるし、祈っても聞かれないことがあります。福音が生む摩擦もあるのです。そういうことを神さまは気にも留めず、自分のことなんて忘れてしまっているのではないか?「『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き下ろすことに他なりません。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」聖書はそう言います。自分みたいな人間のことを神は覚えていないとか、誰も自分の重いこころは分かってくれないとか、私たちは考えてしまう。しかし、主イエスはそんな私のために天にも上り、陰府にも降ってくださいました。キリストは私たちを裏切らず、私たちのことを恥ずかしいと思われず、私たちを御自分の兄弟だと公言してくださいます。そこには、何の差別も区別もないのです。何人であっても、病気の人も健康な人も、障がい者も健常者も、どんな人のことも私たちがこころから差別せずに共にキリストの下さる救いのメッセージを共に喜べるなら、それは神の真珠のような宝です。真珠は貝に小さな核が入り込むことで生まれます。私たちの真珠を作る「核」は「イエスは主である」という告白です。これは私たちが生み出した告白ではなく、新約の時代から教会が受け継いできた共同の告白です。この告白が教会をつくる。私たちもその一員です。共に主を呼び求めましょう。イエスの復活を告げる福音を共に喜びましょう。   

2017年7月13日木曜日

詩編第77編「思い起こせ、神の救いの御業を」

神に向かって声をあげている。夜中の祈りだ。「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。」眠られぬ夜に不安や心配事が心を駆け巡る。眠れないことも恐ろしく、朝が来ることもまた恐ろしい。私は主に突き放されたのか。主の右の御手は変わってしまった。しかし、この信仰者は神の御業を思い起こす。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。」だからこそ、神は私の思いを越えた救いを起こされると信頼する。

2017年7月9日日曜日

マルコによる福音書第9章14から29節「信仰のないわたしを」

最近、キリスト者学生会総主事の大嶋重徳さんという方が『朝夕に祈る 主の祈り』という本を出版されました。「30日間のリトリート」という副題がついています。リトリートというのは静かなところに行き、静まって祈りのときを持つことです。主の祈りの小さなお話が、朝夕に一つずつで30日間分載せられています。一回に数分で読める量で、言葉遣いも優しく、内容もある良書です。先日この本を買って読み始めて、信仰のメンテナンスは祈ることだと、当然と言えば当然のことに気付きました。P.T.フォーサイスという人が『祈りのこころ』という名著を残しています。このようなことを書いています。私たちは自然から圧迫を受けます。自然というのは自然災害なども含まれるでしょうが、それだけではなく、例えば病気や老い、人間関係、思わぬハプニング、子育て、介護、その他何でも当てはまるでしょう。そういうものから私たちは圧迫を受ける。しかし、祈るときに知るのは、それらは単に自然が自分を苦しめているというのではなくて、祈りによる圧迫だということです。圧迫されて収縮してしまうときもあれば、伸びやかに拡張できるときもあります。しかし、収縮と拡張、そのどちらがよりよいときなのかは一概には言えません。圧迫がかえって必要なときもあるのです。祈る者は、圧迫による収縮と、そこからの拡張は、まるで心臓の鼓動のように私たちの人格を作り上げることを知ります。すべての生の圧迫は信仰の結晶をつくり出します。そこでは神は神の宝石を仕上げられます。ひとりの牧師の言葉に触れ、とても慰められました。祈ることで、初めて私たちは信仰者になり得るのです。今日の御言葉には、父親とその息子が登場します。息子は霊に取り憑かれて苦しんでいました。症状を見るとてんかん発作を思わされます。古代社会ではてんかんという病気がまだ解明されておらず、霊の仕業と表現していたのかもしれません。いずれにしても父は必死です。何とかして息子を助けたい。主イエスの弟子たちにはできなかった。父はイエスご自身に願います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」主はお答えになる。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」父親は叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」自分の不信仰を丸ごと明け渡すかのような叫びです。立派な信仰ではない。不信仰と言われてもしかたがない。いや、自分を見れば信仰があるなんて言えない。しかし、そんな自分を丸ごと明け渡したのです。主はその子をいやしてくださいました。それに対照をなすのが弟子たちです。後でひそかに主に尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」イエスは言われます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」弟子たちが祈っていないはずはない。しかし、その祈りは祈りになっていなかったと主は言われる。不信仰だったのです。祈りにおいてそれが分かった。しかし、そういう私であることを丸ごと主に明け渡し、お任せして良いのです。主がそんな私を負ってくださるからです。不信仰は私たちがそれにつきあうほどの価値がありません。主は祈りによらねばと言いましたが、ここで祈ったのは父親です。自分の有り様を見れば惨めですが、その惨めな私を主に委ねる者は、そんな私を神がすでに救ってくださっていることに気付きます。それこそ祈りです。   

2017年7月6日木曜日

詩編第76編「神は地の貧しい人を救われる」

 「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる。」世界が混乱しているとき、暴力に暴力が対抗するとき、この言葉を思い起こしたい。キング牧師は敵を愛すべき理由の一つとして、憎しみに憎しみをという考えがこの宇宙の憎悪と悪の存在を増幅させるだけだと言った。私たちにもよく分かる。それなのに、憎しみが止まらない。「あなたこそ、恐るべき方。」絵空事としてではなく、本気で、この方の御前にひれ伏そう。

2017年7月2日日曜日

ルカによる福音書第4章16から30節「危機を生む宣言」

主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られない仲間もいます。この礼拝は彼らのためのものでもあります。だから、私たちは「教会の祈り」という執り成しの祈りをいたします。それは、この主の日の礼拝が大切だからです。私たちは何のために集まるのか。主イエスが語りかけてくださる御言葉に聞くためです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣われたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、主は言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。このキリストの福音を宣言する御言葉を聴くために、私たちは今朝礼拝に集まってきました。私たちに自由解放をもたらす主の恵みの年は、キリストがそう宣言なさったところで始まるからです。そして、主の日の礼拝は、この福音宣言が響いている場所であり、時間です。今朝の説教題を「危機を生む宣言」としました。ちょっと物騒な題です。何でそのようなことを考えたのか。主イエスの宣言を聞いたイエスの故郷ナザレの人々は驚きました。今日の最後のところにこのように報告されている。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」イエスの話を聞いて、イエスを殺そうとした。但し、危機というのはイエスが危ないという意味ではありません。ここでの「危機」は「分かれ目」という意味です。イエスの言葉を聞く者は、決断を迫られます。イエスの言葉を聞き、これを信じるのか。それとも、それを受け入れずにイエスを殺すのか。なぜ、彼らはイエスを殺そうとしたのか。イエスはご自分の言葉を聞いて人々が感心したのを見て、彼らに、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うに違いないと指摘しながら、要はこのナザレ村では何もしないと言われた。それを聞いて、人々はイエスを殺そうとしたのです。どうして、そこまで人々はイエスを憎んだのか。ある人が指摘していました。それは、私たちの持っている性質に由来している。その性質とは、我々が是認できないすべての人々に神の恵みが与えられることに対して憤慨する性質だ、と。イエスは主の恵みの年の到来を、すべての人に宣言なさいます。そこには私が好きではない人、私を憎んでいる人、何となく気にくわない人も入っているのです。イエスの愛の広がりは、私の心の中に何が潜んでいるのかを明らかにする私にとっての危機です。私たちはどうしても枠を作ります。そして、人を選別する。しかし、主イエスは枠を作りません。では野放図なのかというそうではなく、軸をもたれる。この福音はすべての人に届けられるべきだという軸を。キリストに私の枠を壊してくださいと祈りますか、それとも、この枠の中で自分を守りますか?   

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...