2019年8月5日月曜日

2019年8月5日(歴代誌下19〜20)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一5、歴代誌下19~20、箴言31

歴代誌下19~20;
「明日、彼らに向かって攻め下りなさい。この時、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒れ野の前、谷の端で彼らに出会うが、その時は、戦う必要はない。しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。ユダのエルサレムの人々よ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出撃しなさい。主があなたがたと共におられる(20:16~17)」。
この御言葉を聞いて私が思い出したのは、母教会で出会ったひとりのキリスト者でした。学校の先生をしていましたが、教師生活の最後を自ら志願して素行の悪い学校で過ごしました。自ら願ったとはいえ、やはり学校に行くのは辛いことでもあった。その時、毎朝出勤するとき、主の祈りを唱えながら学校に向かっていたそうです。
学校の先生にとっての生徒がそうであるように、私たちの毎日の戦いは、相手を打ち負かす戦いではないことが多いかもしれません。しかし、主が共にいてくださるのでなければ、私たちはもう一歩も前に進むことができない。それはヨシャファトと同じです。
「しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。」私たちにはもう無理だというときにも、神様は働いていてくださいます。私たちが立つのは、主の業を見るためです。私たちの力が尽きるときにも、私たちはおののかなくて良い。主が戦ってくださるからです。主の戦いについて行けばいい。
主の戦いに私たちを呼び出す招集ラッパが、今吹き鳴らされています。

2019年8月4日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章1から11節「命の福音」


 福音の言葉。これが私たちを救います。コリント教会では実に様々なことが問題になっていました。性や結婚のこと、偶像に供えられた肉のこと、礼拝でのかぶり物、奴隷の主人が聖餐でも奴隷を軽んじていたこと、異言と預言という愛の問題、…。第15章はこの長い手紙のクライマックスです。最も大切なことです。それが他でもない、福音の言葉のことでした。教会は福音の言葉によっていきます。教会には疵があります。コリント教会と同じ間違いはきっとどこにでもあります。パウロは、そういうときに他の何でもなく福音の言葉を思い出してほしいと訴えます。教会は福音の言葉以外の何ものによっても建てられることがないからです。福音以外の何ものも教会の土台にはならない。そのことだけは間違えないでほしい。パウロはそう訴えます。
 福音によって、私たちは救われます。私は自分がとても弱い人間だと思うようになりました。ここでの「弱い」は誘惑に弱いとか人格的に欠陥があるということでもありますが、具体的な心身の弱さのことです。バランスを崩せば病気になるし、傷を負えば痛い。そういう肉体や心の脆さです。しかしそんな弱い私という存在の生活のより所は、福音の言葉なのです。
 その福音の言葉とはいかなる言葉なのか。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファや弟子たちに現れたこと。これがパウロの語る福音です。思えば、これらはすべて私たちの外で起きたことです。私がいい人なのか悪い人なのか、どういう心構えで生きてきたのか、恥ずかしくない人間なのか、コンプレックスはあるのか、どこに生きにくさを感じているのか、などといったこととは関係ありません。福音は、イエス・キリストが何をしたのかということしか語っていないのです。いや、精確に言えば「私」も登場しています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」。私は、本当は私の罪を知らないのだと思います。それがどんなに深くて絶望的なのかを。人にも見せられず、自分でも見たくないもの、見ない振りをしているもの。しかしそうやって自分で意識している部分など表面的で甘っちょろいものにすぎないのかもしれない。私は私の罪を知らない。しかし、キリストは私たちの罪のために死なれました。
 そのキリストが復活しました。この「復活した」という言葉は、復活して今も生きておられるというニュアンスを込めた表現をしています。キリストが復活したというのは過去のエピソードでも、そのような伝説でもない。今、この方が生きておられるということです。だから、ケファに、12人に、500人以上の兄弟たちに、ヤコブに「現れた」と言います。生きておられる方が出会ってくださった。そのお方が、「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とパウロは証言する。「私」がここにも登場しています。私の外で起きた福音の出来事が、私に向かって矢印を指して、ここまで迫ってくるのです。今生きておられるキリストが、この私にも出会ってくださった!
 「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」神の恵みによってというのは、自分でも自分の罪深さが分からないような罪の私のために、この方が死んで、その福音の矢印がこの私にも向けられていて、今生きておられるキリストがこの私に出会ってくださったというその恵みの事実を指しているのです。この福音はあなたのものです。キリストは、あなたの罪のために死なれました。そのキリストは葬られ、三日目に復活し、今生きておられます。あなたに、今日、出会うために。

2019年8月4日(歴代誌下17〜18)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一4、歴代誌下17~18、箴言30

歴代誌下17~18;
ユダ国は新しい王ヨシャファトの治世にありました。「主は彼の手によって王国を揺るぎないものとし、ユダのすべての人々はヨシャファトに貢ぎ物を納めた。彼は大いに富と栄誉に恵まれた。ヨシャファトの心は主の道に励み、ユダから高き所とアシェラ像を取り除いた(17:5,6)」。しかし、彼を唆す誘惑もありました。「ヨシャファトは富と栄誉に恵まれたが、アハブと姻戚関係を結んだ(18:1)」。アハブは、妻イゼベルと共に預言者エリヤと対決をしたあのイスラエルの王です。ヨシャファトの息子の妻がアハブの娘だったのです。
「ヨシャファトは富と栄誉に恵まれたが」と受動形の表現になっていますが、もちろん、それを恵んだのは神様だという意味でしょう。ところがヨシャファトは目に見える安全策と判断して、アハブと姻戚関係を結ぶ政策に出ました。このことはヨシャファトによっては神様から引き離す誘惑になりました。
「数年の後、彼(ヨシャファト)がサマリアのアハブのもとに下ると、アハブは彼とその民のために多くの羊と牛を屠り、ラモト・ギルアドに攻め上ろうと彼を唆した(2節)」。まさに、ヨシャファトにとっては「唆し」だったのだと思います。ヨシャファトとユダ国が主の道に励むために全く必要のない戦争だったのですから。
結局、アハブとヨシャファトの戦争は失敗に終わり、アハブはこの戦で命を落とします。預言者ミカヤが語る主の言葉が、そこで力を持ちました。ミカヤは他の預言者たちがアハブへの忖度から王に耳心地良い言葉に終始したのを尻目に、空気を読まずに真実を語りきりました。アハブのヨシャファトへの甘言は唆しでしたが、ミカヤのアハブへの厳しい言葉は、まさに「預言」というべき神のメッセージでした。私たちは神様の支配に自分を従わせる預言の言葉に聞くのか、自分を守るための計算を応援してくれるだけの唆しの言葉に聞くのか。どちらの道を歩むのか、主の前に問われているのではないでしょうか。

2019年8月3日土曜日

2019年8月3日(歴代誌下15〜16)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一3、歴代誌下15~16、箴言29

歴代誌下15~16;
ユダの王アサは神に従い、正しいことを行う人でした。預言者アザルヤはアサ王のところに来て言います。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに現れてくださった(15:3~4)」。アサは、この言葉を聞いて勇気を奮い起こしました。そして「ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町から、憎むべきものを追放し、主の廊の前にある祭壇を新しくした(8節)」。
しかし、アサ王にある時このようなことが起こりました。北王国イスラエルがユダに攻めてきたのです。その時、王は主の神殿と王宮の宝物庫から取り出した金や銀をアラムの王に贈り、ユダとアラムの軍事同盟のゆえにイスラエルとの同盟を破棄してほしいと頼みます。アラムとの情勢が悪化すればイスラエルが退却すると計算したのです。アラムの王はそれに応じ、イスラエルはアサの思惑どおりに退却していきました。
ところが、ハナニという人がアサ王の所に来て言います。「あなたはアラムの王を頼りとし、あなたの神、主を頼りとしなかった。・・・主の目は全地を行き巡り、心が主と一つである者たちに御力を示す。このことについて、あなたは愚かなことをした。今後、あなたには戦争が続く(16:7,9)」。私たちも、耳にするとグサリと刺さる言葉です。私たちは何を頼りにしているのでしょうか。アサ王は、神様を信じていなかったわけではありません。だから、ハナニに怒りました。しかし、信じていることと実際に生きていることとが乖離してしまったのでしょう。実際に主を頼りとして生きることが、できなかったのです。
そう考えると、自分はアサだと思います。さらにこの後、彼は足の病にかかりました。「その病の中でも、彼は主を求めず、医者を求めた(12節)」。もちろん、医者に行くのが不信仰ということではありません。病気になったらちゃんと病院に行ってください!ただ、私たちの命を本当に一番そこから支えているのは、神様です。そのことは決して忘れてはならない。このひとりの王は、私たちにそのことを問いかけています。

2019年8月2日金曜日

2019年8月2日(歴代誌下13〜14)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一2、歴代誌下13~14、箴言28

歴代誌下13~14;
「しかし、我々には主が神であり、我々が主を捨てることはない(13:10)」。神に背き、金の子牛を拝む北王国に向かって、南王国の王であるアビヤが言いました。この「しかし」という言葉が、心に残りました。南王国は確かにダビデの直系にあたりますが、イスラエル全体で見ると12部族中の僅か2部族に過ぎません。数の上から言えば、マジョリティは北なのではないかと思います。しかし、少数であっても、主なる神様に従う道を選ぶ、とアビヤ王は言ったのだということになるのだと思います。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り替えて戴き、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい(ローマの信徒への手紙12:2)」。
この世に倣い、調子を合わせるというところに、私たちの遭う誘惑の多くがあるように思います。みんながしているから、みんながそう言っているから、出る杭は打たれるから・・・。しかし、何が神に喜ばれることであり、どのように生きることを神が望んでおられるのかは、必ずしも世間の目と一致するわけではありません。私たちは、その点でしっかりと識別しなければならないのではないでしょうか。
「アサはその神、主の目に適う良いこと、正しいことを行った(14:1)」。彼は、神ならぬ神を取り除きました。私たちがまっすぐに神を信じ、神に従って生きる道はいかなる道なのか。今日一日を始めるにあたって、主イエス・キリストの御前にあって、静かに思い巡らし、祈りつつ歩み出したいと願います。

2019年8月1日木曜日

2019年8月1日(歴代誌下11〜12)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一1、歴代誌下11~12、箴言27

歴代誌下11~12;
分裂した北王国を取り戻そうと、南王国ユダのレハブアム王は北に攻め上ろうとしますが、神様がそれをお止めになります。「攻め上ってはならない。兄弟と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰りなさい。このことは私から出たのである(11:4)」。こうして、北と南の分裂は確定的になります。ところが、北からレビ人たちが南にやって来ました。「レビ人は自分の牧草地と所有物を捨てて、ユダとエルサレムに向かった。彼らが主の祭司であることを、ヤロブアムとその子らが拒み、高き所、山羊の魔神、自分で造った子牛のためにヤロブアム自らが祭司を立てたからである(15節)」。そして、「彼らは三年間、ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを励ました。彼らが三年間、ダビデとソロモンの道を歩んだからである(17節)」。
ところが、その道は順調には進みませんでした。「レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った(11:1)」。結局、レハブアムは主を捨ててしまった。その理由は自分が強くなったからだと言います。考えさせられます。困ったときだけ神を求め、なんとか軌道に乗ったらすぐに忘れてしまう。私たちの実態をそのまま映し出すような存在なのかもしれません。
レハブアムと国民らは、主を捨てたために、主ご自身に捨てられてしまいました。「あなたがたが私を捨てたので、私もあなた方を捨てて、シシャクの手に渡す(12:5)」。レハブアムもユダの人々も、せっかくレビ人が集結し、神様を信じる国を造り励ましと力を頂いたのに、転がり落ちるときはあっという間でした。神様の御前にへりくだり、いつもこのような神を捨てる罪の姿が私の原点だと知り、悔い改めつつ歩んでいきたいと思わされます。

箴言5:3~14「諭しをも憎む罪」

「どうして、わたしの心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか。教えてくれる人の声に聞き従わず、導いてくれる人の声に耳を傾けなかった。」ここで無視した諭しとは、「よその女」の蜜のような誘いにのったことを指している。古今東西を問わず、不貞行為への誘惑は大きく、人間がそれに弱いことを聖書はよく知っている。普段は重んじていたつもりの諭しをたやすく憎んでしまう。これは人間存在の根本に根ざす罪の姿だ。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...