2021年1月7日木曜日

2021年1月7日(詩編9)

詩編9
主よ、立ち上がってください。
人が己の力を頼むことなく
国々が御前で裁かれますように。
主よ、国々に畏れを抱かせ
思い知らせてください。
己が人に過ぎないことを。(20-21)

ここに引用をした、この詩編の最後の言葉が心に残りました。「主よ、国々に畏れを抱かせ、思い知らせてください。己が人に過ぎないことを。」畏れというのは当然神への畏れでしょう。神を畏れ、自分は人に過ぎないことをわきまえる。今、私たちが失っていることだと思いました。
コロナのこと一つを考えてみても、このような疫病が出てきたことには何らかのかたちで人間の活動が関係しているのだろうと思います。今まで踏み入れなかった自然の深部に足を踏み入れていったとか、人間の活動が招いた温暖化だとか、説はいろいろあって私にはどれが正しいのかは分かりませんが、現代社会の人間の活動が無関係とは思えません。私たちの社会は、自然に対してあまりにも人間中心主義的に振る舞っています。自然からほしいままに収奪し、長期的にどういう影響を与えるかということよりも今の利益を優先させます。それは強欲だとか刹那的だとかいろいろな批判はできると思いますが、急所は、私たちが人間に過ぎないという事実を忘れているということであると思います。己が人に過ぎないことを忘れれば、人間は化け物になってしまいます。
「人間中心主義の非人間性」と言った人があります。その通りだと思います。さらに「非人間中心主義の人間性」とも言っていました。人間を中心に考えたときに、結局は非人間的な振る舞いを呼び込んでしまう。逆に人間を中心におかない構えを見せたとき、本当に人間を大切にすることができる。
人間を中心におかないといったときに、それでは何が中心にあるのか。この詩編では神を蔑ろにする者たちに対して、「貧しい人が(神から)永遠に忘れられ」ることは決してない、と言います。貧しい人や苦しみ人、社会の中の弱者を神は覚えている、と言います。人間中心主義的な振る舞いは、人間中心と言いながら、結局は自分中心であり、強者中心です。社会の中の弱い立場の人や物言わぬ自然を神が愛し、大切にしておられることに気づくとき、私たちの生き方は変わります。そのようにして、神が私たちの中心におられることを、私たちは学んでいくのではないでしょうか。

2021年1月6日水曜日

2021年1月6日(詩編8)

詩編8
主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。
あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。(2から3a)

この詩編の最初と最後の言葉は同じ。すなわち、「主よ、我らの主よ、御名は全地でいかに力強いことか」が繰り返されています。この賛美の言葉で全体が囲い込まれているのです。全地にとどろく神の御名の力強さを高らかにほめたたえている。しかも、その方は「主」であり、「我らの主」とお呼びする方であって、どこかにいる崇高な存在のようなものではありません。この「主よ、我らの主よ」には日本語訳では二度「主」という言葉が繰り返されていますが、原文を見ると別々の単語が使われています。最初の「主よ」は、神のお名前を現す四つの文字が書かれ、「我らの主」という言葉は一般的な「私たちの主君」という単語が使われています。つまり、全地で力強い御名が賛美される方は、私たちがこの方の方を向いてお名前を呼び、私たちの主よ、と呼びかけることを喜んでくださる方なのです。天とそこに満ちるものをお造りになった方は、私たちが神に向かって賛美を献げることを喜んでくださいます。

この詩編は、天に満ちる神の御手の業を仰ぎながら、驚きます。
あなたの指の業である天を
あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。(4から5)

まさに「驚いている」というべきであろうと思います。視線の移り変わりに注目してみます。まず、神の指を仰ぎ、その指の業である天を思う。果てしなく広がる天。そこには月と星とが輝いている。数え切れないほどの輝きを目の当たりにして、言葉を失う。これらはすべて神の指の業。果てしないこの天とそこに輝く星をお造りになった方が、人をもお造りになった。しかも神に僅かに劣る者として造り、栄光と誉れの冠を授けられた。一体、人とは何者なのか・・・。途方もない神の御業に驚いていることが、よく分かります。
賛美は驚きから生まれます。神の御業の途方もなさへの驚きです。この世界をお造りになった神の指が、この私にも働いているという驚きなのです。

2021年1月5日火曜日

2021年1月5日(詩編7)

詩編7
わが神、主よ、私は御もとに逃れました。
迫り来るすべての者から私を救い
  助けだしてください。(2節)
主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。
身を起こしてください
私を苦しめる者に激しい憤りをもって。
目を覚ましてください。私のために。(7節前半)

自分を苦しめる者がいる。その人は悪事を宿し、害悪をはらみ、偽りを生む。その人と自分との間を裁いてください、と祈る。この祈りの激しさにたじろいでしまう。自分はあまりこういう祈りをしない。「私を苦しめる者に激しい憤りをもって」身を起こし、その人を裁いてください、というのだ。
こういう祈りをしない代わりになにをするのか。恨んだり、無視したり、噂話をしたり。結局、自分でなんとか溜飲を下げるために小さな復讐をする。そして結局はあまりすっきりせずに、ますます恨みだけが募っていく・・・。
詩編はそのようなことをしない。はっきりと神に裁きを求め、神に復讐を求めるのだ。そうして自分の手から放してしまうことが、本当は健全なのではないだろうか。「彼は穴を掘り、さらに深くし、自ら掘った滅びの穴に落ちる。その労苦は彼の頭上に帰り、暴虐は頭に下る。」そういう日が来ることを、私がこの目で見ることはないのかもしれない。私が死んだ後かもしれないし、あるいは相手が生きている間には起きないかもしれない。それは、その人と神さまとの間の問題になってしまっているので、私は関与できない。神がお裁きになるとはそういうことなのだろう。私としては、手放してしまう。そうしたときに気づくのは、手放した者は自由であることだ。もう憎しみや恨みに支配されることもなく、神の御手を信じ、私は私の人生を生きる。神が正しいことをなさる。「その義のゆえに、私は主に感謝を献げます。」

2021年1月4日月曜日

2021年1月4日(詩編6)

詩編6
主よ、帰って来てください。
私の魂を助けだし
慈しみによって、お救いください。
死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。
陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。
私は嘆き疲れました。
夜ごと涙で寝床を浸し
床を漂わせています。

夜を巡る描写が、第3,4,5編とかなり違います。平安のうちに身を横たえ、また朝を迎えると言っていました。しかし、この第6編では涙で寝床を浸している。きっと眠れなかったに違いない。しかも、この寝床は、単に一日が終わって眠りに就くということではないのだと思います。3節では「私は病み衰えています」と言っています。病気だったのでしょう。肉体も心も弱っていた。床に伏していた。6節の「死ねば」「陰府」という言葉を読めば、この人は死を強く意識していたことが分かります。床の上で絶望し、涙を流して寝床が浸るほどだった。そういう夜の祈りです。
私は、この詩編第6編が好きです。とても暗い詩編です。しかし、悲しいときにこれを読み、この詩編の言葉を自分の祈りの言葉として祈ると、癒やされます。私の悲しみや嘆きを言葉にしてくれているからです。詩編はそうやって使うものなのだと思います。聖書の言葉に対して「使う」というと少し不遜な物言いかもしれません。ただ、詩編は私たち自身の祈りになることを待っているのではないでしょうか。この詩編第6編も、例外ではないと思います。
「主は私の泣く声をお聞きになった」と言います。祈る者は知るのです。神がこの涙を覚え、私の泣き声を聞いてくださっていることを。「主が私の祈りを受け入れてくださる」のだということを。助けてください、救ってください。そう祈る私たちの祈りを、主なる神様は耳を傾けて聞いてくださいます。
だから、私たちは祈ります。「主よ、いつまでなのですか」と祈ります。「主よ、帰って来てください」と祈ります。祈る者を、主は必ず御心に留めてくださるから。私たちは主を信じ、祈るのです。

2021年1月3日日曜日

2021年1月3日(詩編4〜5)

詩編4~5
あなたは私の心に
穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを
  与えてくださいました。
平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
主よ、あなただけが、私を
  安らかに住まわせてくださいます。(4:8,9)
主よ、朝に私の声を聞いてください。
朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
  待ち望みます。(5:4)

礼拝前に司式者、奏楽者、説教者の祈りをしています。牧師が祈ったり長老が祈ったりしますが、以前長老をしてくださっていた方が、よく「あなたに寝ずの番をして頂いて、朝を迎えました」と祈っておられました。その祈りの言葉を聞く度に、本当にそうだなと、心を合わせて私も祈っていました。神が私たちのための寝ずの番をしてくださっている。それは出エジプト記に書かれていることで、過越の夜に神がイスラエルのための寝ずの番をした、という記事に由来する言葉です。
神が私のための寝ずの番をしてくださっている。だから、平安のうちに身を横たえ、眠ることができます。忙しくてなかなか寝床に行けない夜もあります。不眠で寝付けなかったり、すぐに起きてしまうこともあります。そうやって覚醒してしまうとき、神さまはどこかでぐっすり眠っておられるというのではない。神さまも起きていて、私たちのために番をしていてくださいます。根本的なところでは、私たちは平安です。
朝、神さまに祈りましょう。神さまは私たちの声に耳を傾けてくださいます。望みを持って神さまに祈りましょう。朝の光が辛い日にも、神さまの光はもっと優しく、私たちを照らしているのです。
神さまに祈る喜びは、穀物や新しいぶどう酒にまさる喜びだと言っています。お金で買うことはできないし、私たちの手で成し遂げた成果(例えそれがどんなにすばらしく、特別であったとしても)にまさる喜び、絶対的な平安。神さまは今日も、私たちのために夜眠ることもまどろむこともなく、そしてこの朝も、働いてくださっています。

2021年1月2日土曜日

2021年1月2日(詩編2〜3)

詩編2~3
なぜ、国々は騒ぎ立ち
諸国の民は空しいことをつぶやくのか。
なぜ、地上の王たちは立ち上がり
君主は共に謀って
主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。

なぜ。私たちも問います。なぜ、と。なぜ、国々は騒ぎ立って神に逆らうのか。なぜ権力者たちは結託して神に背を向けるのか。この世界を造られた神の愛と慈しみを蔑ろにし、空しいものをまるで神であるかのようにあがめたてまつるのか。なぜなのか。なぜ、世界はこんなにもデタラメで、不正がまかり通るのでしょうか。
しかし、この詩編の祈り手は言います。「私は主の掟を語り告げよう」と。神が「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ」と言ってくださるから。神の子として頂いた者として、私は神に従い、神の掟を語り継げる、と言うのです。世界が例えどんなにデタラメであったとしても、不正がまかり通っていたとしても、私はそれでも神に従うことをやめない。この世で報いを受けなくても、諸国の民や権力者たちに罵られても、神を愛し続ける。神が私をご自分の子として迎えてくださったから。そのように言うのです。

続く第三編ではこのように言います。
主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。
多くの者が私に立ち向かい
多くの者が私の魂に言っています
「あの者に神の救いなどない」と。

しかし、誰が何と言おうとも、神が私の盾でいてくださり、私の栄光でいてくださる。そう断言します。私には苦しみが多い。神に祈っても信じても従っても現世の御利益は特にない。しかし、「それがどうした」と言わんばかりに、神に向かって「あなたこそ」と言うのです。あなたこそ私の救い。だから、平安の内に眠ることもできます。「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから。」周りが敵ばかりだと思えば、夜も眠れません。しかし神が支えてくださるから、安心して眠ることができる。今日の私たちの目覚めも、神の祝福の内に頂きました。主なる神こそ、私たちを愛し、ご自分の独り子をさえ与えてくださる慈しみに満ちたただおひとりの神です。

2021年1月1日金曜日

2021年1月1日(詩編1)

詩編1
幸いな者
悪しき者の謀に歩まず
罪人の道に立たず
嘲るものの座に着かない人。
主の教えを喜びとし
その教えを昼も夜も唱える人。
その人は流れのほとりに植えられた木のよう。
時に適って実を結び、
葉も枯れることがない。
その行いはすべて栄える。

主の教えを喜びとし、昼も夜も唱える人!その人は何と幸いなことでしょう。この「唱える」という言葉を辞書で引くと「黙想する」という意味もあると書かれています。とても魅力的な訳語です。黙想、それは聖書の御言葉に沈み込むことです。深く沈潜して、御言葉を内側から感じ取ることです。詩人の八木重吉がこのような詩を残しています。

この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわにはいりこみたい。

主の御言葉を感じ取るとき、私たちは命の水の流れに養われていることに気づきます。葉も枯れず、実を結ぶ。
この「唱える」という単語ですが、「ブツブツ何かを言う」という意味もあります。ブツブツと言うと随分と印象が悪いですが、恐らく口の中にずっと言葉があり続ける、ということだと思います。ここでは口の中にあるのが不平ではなく、主の教えなのです。何が口の中にあるかで、私たちは変わります。
主の御言葉に入り込み、内側から感じ、私たちの口の中に御言葉があり続けるなら、私たちは必ず新しくなります。キリストに似たものにしていただける。私はそう信じています。御言葉が私を新しくする。そうであるならば、後は神さまの責任です。御言葉によって私を新しくしてくださる神さまに期待し、喜んで御言葉を口ずさみ、深く御言葉に潜り込んで、そこに込められた神の愛を感じ取りたい。そう願います。

新しい年も、神の言葉の祝福があなたにありますように。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...