2021年11月7日日曜日

2021年11月7日の聖句

あなたの口に置いた私の言葉は、あなたの口からもあなたの子からも、その子孫の口からも離れない。(イザヤ59:21)
これまで書かれたことは私たちを教えるために書かれました。それによって、聖書が与えてくれる忍耐と慰めにより希望をもつためです。(ローマ15:4)

教会は、聖書の御言葉に聞き、神さまを礼拝する共同体です。神さまを信じて生きることは、独りぼっちの業ではありません。確かに一人でだって祈りますし、一人で聖書を読むこともできます。しかし、神さまは旧約の時代から一つの民に語りかけました。キリストはマンツーマンのレッスンをしたのではなく、12人を初めとした弟子たちの群れを集めました。私たちは一人で神さまの御言葉を極めるのではなく、キリストのお体である教会でこれを聞きます。
「あなたの口に置いた私の言葉は」と、神さまは預言者に言われます。この預言者に限らず、旧約の預言者たちは民に向かって語り続けました。誰も聞いてくれなくても、拒絶されても、神さまの御言葉を独り占めしません。それはただ目の前にいる人だけではなく、更に「あなたの口からもあなたの子からも、その子孫の口からも」と言われているとおり、世代を超えて、将来に向かって語られ続けました。「その子孫」、つまり私たちのところにまで、預言者が語り継いだ神さまの御言葉が届けられたのです。
私たちは独りぼっちで神さまを信じるのではありません。共に神を信じる兄弟と、姉妹と、神さまに耳を傾け、心を傾け、そしてそれ以上にすべてを傾けて私を愛し抜いてくださる神さまの愛の言葉を聞くのです。神さまの言葉は、私たちの口から離れることはありません。祝福を告げる神の言葉は、必ず、私たちの内で響き続けるのです。
神さまの御言葉、聖書の御言葉は、私たちの忍耐と慰めを与え、私たちの希望であり続けます。ですからこの御言葉に耳を傾けましょう。今日も、共に。神さまは私たちを一つの民として招集してくださいます。共に、神さまの御前に進み出ましょう。

2021年11月6日土曜日

2021年11月6日の聖句

私が「足がよろけています」と言ったなら、支えてください、主よ、恵みによって。(詩編94:18)
イエスはペテロに言われた。「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った。」(ルカ22:32)

「足がよろけています」とパッと聞くと、あまり自分には過失のない失敗だとか、仕方のないことで支えが必要な状態、というような印象を受けます。つまり、あまり深刻ではないかと。しかし今日私たちに与えられている旧約と新約の御言葉を併せて読むと、印象がまったく違うものになります。
「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った」と主イエスはペトロにおっしゃいました。これは、最後の晩餐と呼ばれる食卓での会話です。主イエスは、ペトロがこの後、鶏が鳴くまでの間に三度も繰り返してイエスを知らないと言うと予告なさいました。そのために、ペトロは信仰を失ってしまうような危機に陥る。実際、その通りになりました。しかし、そんなペトロの信仰がなくならないようにと主イエスがペトロのために祈ってくださるのです。
「足がよろけてしまいます」、これは少なくともペトロにとっては、ちょっと失敗してしまったとか、不可抗力だったとか、たいしたことない失敗だとか、そういうことではありませんでした。イエスを知らないと言ったのです。イエスを見捨てたのです。愛するイエスを裏切ったのです。信仰も何もない。ところがそんなペトロのために、イエス御自身が祈ってくださいました。「あなたの信仰がなくならないようにとあなたのために祈った。」
私たちは、神さまにまったく顔向けできない失敗を繰り返します。申し訳なくて顔を上げられないことがたくさんあります。それなのに、始末の悪いことにそれを忘れて、自分の失敗をあげつらって人を責めるようなことまでしてしまいます。ところがキリストは無限の赦しです。限りない愛です。私たちがどんなに足がよろけ、キリストを裏切り、捨てたとしても、この方は私たちを捨てません。私たちを恵みによって支えてくださいます。
私たちがに本当に必要なのは、この愛です。キリストの限りなく、途方もない赦しがないと、私たちは生きられないのです。あなたのために、今日もキリストは祈っています。限りない恵みが、キリストからあふれています。

2021年11月5日金曜日

2021年11月5日の聖句

災いだ、悪を善、善を悪という者たち、闇から光を造り、光から闇をつくるものたち。(イザヤ5:20)
このためにあなたたちは召されました。キリストもあなたたちのために苦しみを受け、あなたたぎた従うべき足跡を残されました。この方は罪を犯さず、口には偽りがありませんでした。(1ペトロ2:21~22)

今日私たちに与えられているこのペトロの手紙には「キリストもあなたたちのために苦しみを受け」と書いてあります。ここに「キリスト"も"」と書いてあるのが、私は大好きです。キリストも苦しみを受けておられる。キリストも、そして私たちも、ということでしょう。私たちが苦しみを受けるとき、キリストも同じようにして苦しみをお受けになったことを私たちは思い起こすことができるのです。
苦しいときはとても孤独です。この痛みは誰にも分からないと思ってしまいます。自分は他の人よりもずっと苦しいと思う。しかし、キリストも苦しみをお受けになったのです。私たちと同じように、私たちが遭う苦しみ、理不尽な思い、孤独を知っていてくださる。そして、神に棄てられた悲しみを私たちよりもずっと深く知っていてくださるのです。
苦しみの中で、私たちはしばしば罪を犯します。「災いだ、悪を善、善を悪という者たち、闇から光を造り、光から闇をつくるものたち。」この言葉はとても厳しいものです。私たちの誰よりも厳しく災いをご存じでいらっしゃるキリストは、どのようなときにも光でいらっしゃいます。どんなに暗闇が深くても、この方は私たちのための明かりを灯してくださいます。キリストという優しい光の中に私たちはいるのです。善を善とし、光を光としてくださる方が私たちを照らしてくださいます。悪を悪とし、闇を闇とする方が私たちを悪から救いだしてくださるのです。
「このためにあなたたちは召されました。キリストもあなたたちのために苦しみを受け、あなたたぎた従うべき足跡を残されました。この方は罪を犯さず、口には偽りがありませんでした。」私たちはキリストの跡に従うために神に招かれました。今日という私たちの一日は、キリストと共にある一日です。

2021年11月4日木曜日

2021年11月4日の聖句

私の魂は私の神にあって喜ぶ。主が救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるからだ。(イザヤ61:10)
宦官は喜びながら帰って行った。(使徒8:39)

恐らく当時の周辺諸国でもそうであったように、イスラエルでも宦官は差別されていました。特にイスラエルでは、律法にこのような言葉があります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない(申命記23:2)」。主の会衆に加わることができない。つまり、皆と一緒に祈ったり礼拝したりすることができない、ということになる。
現代とはかなり事情は異なりますが、しかし宦官という存在は当時の社会での性的マイノリティであることは確かだと思います。彼らの存在は律法で認められておらず、同じように社会から白い目で見られていました。
ところが、聖書は宦官を捨ておきません。イザヤ書56:3に、このように書いてあります。「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」周囲から差別され、他の人と一緒に祈ることも許されず、自分でも自分に「枯れ木」と烙印を押さざるを得なかった。しかし、聖書は言います。もう私は枯れ木だと言うな、と。
それは、この福音の言葉があるからです。「私の魂は私の神にあって喜ぶ。主が救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるからだ。」救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせてくださるのは、神さまです。誰が何と言い、どんなに不当で理不尽なことを言われたとしても、神が私のために救いの衣を着せてくださる。主が私のために正義の外套をまとわせてくださる。だから私はもう裸ではないし、神の恵みの中を生きることができる。
使徒言行録第8章に登場する、キリストの福音を聞いたエチオピアの女王に仕える宦官は私も救われると知ってキリストを信じました。誰が私を貶めたとしても、神は私を救ってくださる。その事実を知ったからです。
キリストは、私たちのために救いの衣を着せてくださいます。正義の外套をまとわせてくださいます。私たちを、救ってくださるのです。

2021年11月3日水曜日

2021年11月3日の聖句

主が言われたことはこうです。「私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する」。(レビ記10:3)
あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。(1コリント3:16)

今朝のレビ記の御言葉は、1節から読んでいくととても恐ろしい箇所です。モーセの兄にアロンという人がいます。祭司です。そのアロンの息子も祭司でした。ところが息子たちが規定に反した炭火で香をたいて礼拝をした。すると「主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」。それに続けてモーセがアロンに告げた言葉が、今日の御言葉です。「主が言われたことはこうです。『私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する』」。つまり、主が聖なるお方だというのは、聖なるお方の前で私たちは死なねばならないということです。
アロンの息子たちたどんな気持ちで規定に反した炭火を使ったのかは分かりません。いい加減な気持ちだったのか、間違えてしまったのか・・・。いずれにしてもそのために彼らは死なねばならなかった。それは私たちには理解できないことではないでしょうか。「確かに死んでも仕方ない」とは私たちには言えない。なんでそこまでの責任を取らなければならないのか、理不尽ではないか・・・。私たちには理解できないのではないでしょうか。神さまが聖なるお方だというのは、私たちの理解を絶している事実です。
そのことを知ると新約の御言葉も本当に恐れ多いものです。「あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。」聖なる神さまが私たちの内に住んでいてくださるのです。アロンの息子たちのことを考えると、一体どうしてそのような責任を引き受けることができるでしょうか。
今改めて思い起こすのは、この聖なる神さまの独り子でいらっしゃる方が、一人の幼子として私たちの間に宿ってくださったという事実です。主イエス・キリストは聖なる神さまの独り子です。仰ぎ見れば私たちが死なねばならない、神さまです。しかしそのお方がへりくだって、私たちの間に宿ってくださった。神さまはご自分の聖なることを私たちの間にへりくだることによって示してくださいました。私たちを神殿として、私たちの内に神の霊が宿っておられる。その事実も、神の聖なるへりくだりです。神さまの愛と謙遜によって、私たちは神と共に生きることができるのです。

2021年11月2日火曜日

2021年11月2日の聖句

あなたの太陽はもはや沈むことなく、あなたの月は光が陰ることがない。主があなたのとこしえの光となるからだ。(イザヤ60:20)
私は光として世に来た。私を信じる者が闇の中に留まることのないためです。(ヨハネ12:46)

今朝のイザヤ書の御言葉は、ヨハネの黙示録にもとてもよく似た言葉が記されています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」小羊というのは主イエス・キリストのことです。キリスト御自身が私たちの明かりになってくださる。だから太陽も月ももはや必要なくなる。これは天の都のことです。神の都では主イエス御自身が明かりとなって私たちを照らしてくださるのです。
「あなたの太陽はもはや沈むことなく、あなたの月は光が陰ることがない。主があなたのとこしえの光となるからだ。」この旧約の預言者が言う太陽や月も、明らかに空に浮かんでいる自然の太陽や月のことではありません。沈むことのない太陽、陰ることのない月、それは私たちを照らしてくださる主なる神様という光を指す。やはりここでも、神様ご自身が私たちの光となってくださると言う。それが神さまの私たちへの約束です。
神さまが私たちの光となってくださるというのは、聖書の中で繰り返し告げられていることです。光が福音の象徴になるのは、私たちが光を必要としているからです。今、私たちが暗闇の中に生きているからです。今週の日曜日に預言者エレミヤの言葉を読みました。エレミヤは神さまがお造りになった世界、そこにあったはずの愛の秩序が崩れ、世界が混沌に突き進んでいると言っていました。そのことを深く痛んでいました。預言者は暗闇を見ていた。私たちには、私たちの世界を覆っている暗闇が見えているでしょうか。もしもエレミヤのように私たちが痛んでいないのだとしたら、それはネオンの光で夜の闇をごまかす社会に慣れすぎてしまっているからなのかも知れません。
キリストは言われます。「私は光として世に来た。私を信じる者が闇の中に留まることのないためです。」私たちは、暗闇の中にいる。しかしその暗闇にキリストという光が射した。キリストの光の中を、キリストという明かりに照らされて、私たちは今日この新しい一日に歩み出していきます。

2021年11月1日月曜日

2021年11月1日の聖句

彼らは収穫の時に喜ぶように、あなたのみ前に喜ぶ。(イザヤ9:2)
願いでなさい、そうすれば受けることができ、喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

今日私たちに与えられている新約聖書、ヨハネによる福音書の御言葉を直前の23節から改めて読むと、このように書かれています。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
主イエス・キリストは、ご自分の名によって神に祈るようにおっしゃいました。私たちが「主イエス・キリストのお名前によって祈ります」と祈りの最後に言うのは、このキリスト御自身の言葉があるからです。私たちはキリストのお名前で祈り、願う。キリストの名による願いを父なる神様は聞いてくださる、その願いに応えてくださる、キリストはそのように約束なさいました。
私たちの神さまは、私たちが祈ること、願うことを喜んでくださる神さまです。何も言わずにじっとしていたり、我慢して沈黙していたりするよりも、私たちが大胆にも独り子キリストのお名前で祈り願うことを神さまはお喜びになるのです。文字通りに「有り難い」ことです。
人間関係でも同じだと思います。半信半疑でいるということが、期待を裏切られたときに自分が傷つかないための準備になっているということがあるのではないでしょうか。斜に構えたり、もしも叶えば儲けものというくらいの期待にとどめておいたり。そうではなくて、全幅の信頼を置いて祈っていい。神さまにつかみかかる勢いで祈っていい。それが「私の名によって願いなさい」というキリストの言葉の意味です。信仰をぶつける祈りを、神さまは待っておられるのです。キリストの御名という神さまの存在をかけて、私たちの存在をかけた祈りを受け止めてくださいます。
その祈りは、必ず喜びに至る。これは、もう確実なことです。短期的に見れば私たちにはいろいろありますが、収穫を得るには時間がかかる。神さまの御業は私たちの思いを超えているから、必ず私たちを最上の喜びにあずからせてくださいます。信じて、今日も祈りましょう。キリストの御名によって!

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...