主が言われたことはこうです。「私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する」。(レビ記10:3)
あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。(1コリント3:16)
今朝のレビ記の御言葉は、1節から読んでいくととても恐ろしい箇所です。モーセの兄にアロンという人がいます。祭司です。そのアロンの息子も祭司でした。ところが息子たちが規定に反した炭火で香をたいて礼拝をした。すると「主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」。それに続けてモーセがアロンに告げた言葉が、今日の御言葉です。「主が言われたことはこうです。『私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する』」。つまり、主が聖なるお方だというのは、聖なるお方の前で私たちは死なねばならないということです。
アロンの息子たちたどんな気持ちで規定に反した炭火を使ったのかは分かりません。いい加減な気持ちだったのか、間違えてしまったのか・・・。いずれにしてもそのために彼らは死なねばならなかった。それは私たちには理解できないことではないでしょうか。「確かに死んでも仕方ない」とは私たちには言えない。なんでそこまでの責任を取らなければならないのか、理不尽ではないか・・・。私たちには理解できないのではないでしょうか。神さまが聖なるお方だというのは、私たちの理解を絶している事実です。
そのことを知ると新約の御言葉も本当に恐れ多いものです。「あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。」聖なる神さまが私たちの内に住んでいてくださるのです。アロンの息子たちのことを考えると、一体どうしてそのような責任を引き受けることができるでしょうか。
今改めて思い起こすのは、この聖なる神さまの独り子でいらっしゃる方が、一人の幼子として私たちの間に宿ってくださったという事実です。主イエス・キリストは聖なる神さまの独り子です。仰ぎ見れば私たちが死なねばならない、神さまです。しかしそのお方がへりくだって、私たちの間に宿ってくださった。神さまはご自分の聖なることを私たちの間にへりくだることによって示してくださいました。私たちを神殿として、私たちの内に神の霊が宿っておられる。その事実も、神の聖なるへりくだりです。神さまの愛と謙遜によって、私たちは神と共に生きることができるのです。
あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。(1コリント3:16)
今朝のレビ記の御言葉は、1節から読んでいくととても恐ろしい箇所です。モーセの兄にアロンという人がいます。祭司です。そのアロンの息子も祭司でした。ところが息子たちが規定に反した炭火で香をたいて礼拝をした。すると「主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」。それに続けてモーセがアロンに告げた言葉が、今日の御言葉です。「主が言われたことはこうです。『私の近くにいる者たちにより、自分が聖であることを示し、民全体の前で自分が栄光あることを証明する』」。つまり、主が聖なるお方だというのは、聖なるお方の前で私たちは死なねばならないということです。
アロンの息子たちたどんな気持ちで規定に反した炭火を使ったのかは分かりません。いい加減な気持ちだったのか、間違えてしまったのか・・・。いずれにしてもそのために彼らは死なねばならなかった。それは私たちには理解できないことではないでしょうか。「確かに死んでも仕方ない」とは私たちには言えない。なんでそこまでの責任を取らなければならないのか、理不尽ではないか・・・。私たちには理解できないのではないでしょうか。神さまが聖なるお方だというのは、私たちの理解を絶している事実です。
そのことを知ると新約の御言葉も本当に恐れ多いものです。「あなたがたは知らないのですか。自分たちが神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを。」聖なる神さまが私たちの内に住んでいてくださるのです。アロンの息子たちのことを考えると、一体どうしてそのような責任を引き受けることができるでしょうか。
今改めて思い起こすのは、この聖なる神さまの独り子でいらっしゃる方が、一人の幼子として私たちの間に宿ってくださったという事実です。主イエス・キリストは聖なる神さまの独り子です。仰ぎ見れば私たちが死なねばならない、神さまです。しかしそのお方がへりくだって、私たちの間に宿ってくださった。神さまはご自分の聖なることを私たちの間にへりくだることによって示してくださいました。私たちを神殿として、私たちの内に神の霊が宿っておられる。その事実も、神の聖なるへりくだりです。神さまの愛と謙遜によって、私たちは神と共に生きることができるのです。