2018年3月15日木曜日

詩編第112編「悪評に屈しない心」


「主に従う人は…悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。」こういう御言葉を読むと、私の心は何とそれとは逆であろうかと情けなくもなります。しかしここでのポイントは心の強さや高潔さであるよりも、主への信頼です。主を信頼しているから、他の人の評判に一喜一憂しないで済むのです。主を畏れ、主の戒めを深く愛することこそ、その強さの秘訣なのです。主の愛が私を主への愛に生かしてくださると信じます。

2018年3月8日木曜日

詩編第111編「主を記念して」


礼拝での讃美歌、祈りの言葉である。会衆の中で賛美をささげている。「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」と言うとおり、主の御業を覚え、感謝と賛美をささげる。私たちも同じ営みを続けている。主の晩餐を祝うとき、私たちは主がご自分の体と血と言われたものを食べ、飲み、主を記念する。主が「契約をとこしえに御心に留め」てくださるから。主が贖いを送ってくださった。私たちを主のもの、その民にしてくださったのだ。

2018年3月4日日曜日

イザヤ書第52章7から12節「美しい知らせ」

今朝の説教題を「美しい知らせ」としました。少し訂正しなければならない、と思います。神さまが私たちに下さった知らせは、もちろん、美しいものです。しかし、美しいのは知らせだけではありません。その知らせを伝える者の足もまた美しいと言うのです。ですので、私は信じています。私の足もまた美しい、と。図々しいでしょうか?いいえ。良い知らせを伝える者の足は、やはり美しいのです。マラソンという競技の紀元になったのは、「紀元前490年、ギリシャのアテネ軍が侵入したペルシア軍を撃破し、一人の兵士が戦場のマラトンからアテネまでの約40キロの距離を走り、戦勝を報じて死んだという故事」なのだそうです。マラトンの戦い、それはアテネ軍には勝つ見込みが少ない戦いだったとも聞きます。しかし、勝利を収め、その良い知らせをもたらすために山々をかける者の足は、アテネの人々になんと美しく見えたことでしょう。私たちは、しかし、それ以上に素晴らしく美しい、とびきりの良い知らせを伝えようとしています。「あなたの神は王となられた」と。イエス・キリストは王になられた。私たちも、世界のすべての国々も、それを今仰ぎ見ている!主イエスさまが、私たちに「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教えてくださいました。神さまの国が来ますように、神さまが王として私たちを御支配くださいますように。教えられたとおりに、私たちはこれまで何百回、何千回祈ってきたことでしょう。その私たちに、告げ知らされます。「あなたの神は王となられた」と。このイザヤ書第52章は、先ほどのマラトンの戦いの少し前、紀元前六世紀を背景にしています。それから70年ほど前にユダの国はバビロンとの戦争に敗れ、国の要人たちは皆遠い異国の地に捕囚として連れて行かれてしまいました。この預言者は遠い捕囚の地で活動した人物です。捕囚の地で、彼らは小さかった。預言者の言葉に耳を傾けたのは、明らかに個人ではなく集団です。こう表現することも許されるでしょうか。そこにあったのはバビロンの教会だ、と。圧倒的な世の力の前で、物の数にもならない小さな集団、バビロンの教会。「あなたの神は王となれた」と預言者は言うけれど、実際にこの世で即位している王の力は圧倒的で、下手をすると預言者の言葉など絵空事に過ぎません。しかし、彼らは信じたのです。神さまがくださった良い知らせ、福音を。本当に私たちの神が王となられたのだ、と。今日の聖書の箇所は、すぐ後に第53章の苦難の僕の歌に続きます。主イエス・キリストのお姿をまことに美しく、鮮やかに歌った言葉です。美しい?そのお姿は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と言います。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」およそ「王」にふさわしい姿ではありません。しかし、神さまはおっしゃいます。「わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」この方は、王として私たちを支配なさる。どうやって多くの人を獲得したのか?私たちに代わって打ち砕かれ、私たちの背きのために懲らしめられることによって、です。私たちの王となってくださった方は、私たちに軽蔑され、無視された方なのです。その私たちの罪を、神はこの方にすべて負わせられました。神の美しさがそこにある。だから、私たちには平和があります。救いがあります。私たちは、もう、神の国の国民なのです。   

2018年2月28日水曜日

詩編第110編「まことの王、まことの祭司」


この詩編は新約聖書ヘブライ人への手紙に大きな影響を与えている。1節や4節が引用されている。主イエス・キリストを語る言葉としてこの詩編が聞き取られた。まさしくイエス・キリストこそまことの王、まことの祭司である。キリストは王としてすべてのものを支配される。そして、イエスは祭司として神の前に立ち、私たちのために執り成してくださる。「あなたの民は進んであなたを迎える」。アーメン。我らは進んでキリストをお迎えしよう。

2018年2月25日日曜日

マルコによる福音書第14章26から36節「傲慢と謙遜」

自分は一体何者なのか。そのことを魂の深いところで知ることが、私たちの信仰生活にとってとても大事なことであるのだと思います。特に信仰の危機や苦しみの時、悲しみの時に、私は一体何者なのかということが決定的な意味を持ちます。27節に「羊」という言葉が登場します。私たちは主イエス・キリストという羊飼いに養われる羊の群れです。私たちはそのことを誇りに思っていたいのです。今日の朗読箇所には、ペトロと主イエスご自身という二つの在り方が描かれています。その姿が私たちに問いかけるものがあるのです。

主は弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。そうしたらペトロは答えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」主はさらに言われます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」するとペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」ペトロは言い張っています。この会話は対話になり損なっています。ペトロには自分を変えるつもりがさらさらないからです。主イエスの言葉が右の耳から左の耳へ通過しています。しかし、自分についてペトロが言い張る言葉は、的外れでした。これは私たちの姿ではないでしょうか。主イエスはペトロが何ものなのかをよくご存知です。しかし、ペトロ自身はそのことをよく知らないのです。だから、「たとえ、みんながつまずいても…」と傲慢にも言い張ることになる。それでは、私たちは本当は一体何者なのでしょう。

かつて、現代のカトリック教会の宗教改革と言っても良い、第二バチカン公会議を招集したヨハネス23世という教皇がいました。このような言葉を残しています。「みずから身を屈して、迫害・遺棄・裏切り・死に、羔として身をささげる、いとやさしきわれらのイエズスを見ると、心は戸惑い、はじ、ひれ伏す。もう語ることもできず、うぬぼれさえ、その鼻っぱしを引き込める。」主イエスをじっと見つめていれば、私たちが一体何者なのかが分かると言います。主のいとやさしいことに気づいたとき、私たちは自惚れや傲慢から解放されます。主は「あなた方は皆、わたしにつまずく」と言われます。なぜ躓くのか?主はそれを聖書の言葉で説明なさいます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」つまり、私たちが主という羊飼いが養う羊の群れだからです。もしも無関係な羊飼いが打たれたとしても、野良羊はびくともしないでしょう。自分には関係ありませんから。しかし、羊飼いの群れの羊であれば、羊飼いが打たれたらそれこそ一大事です。羊たちは散ってしまいます。私たちが主の十字架につまずくのは、実は私たちが主の羊にして頂いているからなのです。

主は祈っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」主がここで注目しておられるのは、神が何をしておられ、何を望んでおられるかということです。ペトロが注目していたのは自分のことでした。私たちの目を主に向け直すとき、私たちは自分が何ものなのかを知ることができます。私は罪人の分際だけれど、その私を主は御自分の羊としてくださいました。主は先だって導いてくださいます。   

2018年2月22日木曜日

詩編第109編「神に訴えることしかできない恵み」


一読してたじろぐほど激しい言葉、呪いの言葉と言うべき詩編である。このようなことを祈っても良いものかといぶかしくさえ思う。しかし、少し注意したい。この詩編は「貧しく乏しい」者の言葉だ。つまり、自分ではどうすることもできない。しかしできないのだ。神にしか頼ることができない。だから、こうして祈っているのだ。「私は人間の恥」とまで言う。主の慈しみにすがるしかない。だれが見捨てても、神は私を捨てないと信じている。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...