2023年11月30日木曜日

2023年11月30日の聖句

わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。
その翼には癒やしがある。(マラキ3:20)
夜は更け、昼が近づいた。(ローマ13:12)

今日で11月が終わります。12月になると一年を振り返る機会が多くなるかも知れません。今年の大きなニュースを考えると、やはり、イスラエルとパレスチナの出来事を忘れるわけにはいきません。それだけではなく、イスラエル・パレスチナの問題がニュースになってから報道される機会が減りましたが、ウクライナの戦争もいまだ終わったわけではない。そのような暗いニュースが多かったです。私たちの世界は痛んでいます。呻いています。救いが見つからず、混乱が深まっています。夜の闇が濃くなっている。
私たちはそういう時代に、そういう世界の中で、救いの光であるイエス・キリストが再び来てくださるのを待ち望んでいます。キリストが再び来て私たちを救ってくださる。その日を私たちは待ち焦がれている。
「夜は更け、昼は近づいた」と書かれています。夜が更け、闇が濃くなっていく。しかしそれは、実は朝の光が近づいている証拠に他ならない。主イエス・キリストは必ず来てくださる。キリストの来臨は近い。私たちは、私たちを救ってくださるキリストを待ち望んでいます。
この世の罪の闇は、考えられないほどに濃い。私たちにはその濃さをいくら見つめても、どこにも救いの徴なんて見えません。私たちはただひたすらに、キリストの約束を信じて待ち望みます。必ずキリストは私たちを救うために再び来てくださる。「わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。」キリストは義の太陽として、癒やしの翼を広げて、私たちのところへ来てくださる。その日を待ち望んで、今日も私たちは希望をもって生きていきます。

2023年11月29日水曜日

2023年11月29日の聖句

お助けください、主よ。
敬虔な人は減り、人の子の中で忠実な人々は少ないのです。(詩編12:2)
イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。(ヨハネ6:67)

主イエスから福音の言葉を聞いた人の多くは、却ってそれに躓いて主イエスのもとから離れていきました。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(ヨハネ6:66)」それをご覧になって、主イエスは12人に言われます。「あなたがたも去ろうとするのか」と。
福音の言葉を聞いたとき、人々の反応は、喜びではありませんでした。感動ではなかった。捜していた人生の意味を見出したと言ったのでも、これまで抱えてきた問題の解決がここにあると言ったのでもありませんでした。躓きました。こんな話は聞くに値しないと、イエスの側から離れていきました。
「あなたがたも去ろうとするのか」と尋ねられた12人は、答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。(68節)」彼らは主イエスを信じた。しかし、その信仰をこれからずっと貫くことができたわけでもありません。やがて、彼らも主イエスのもとから立ち去ってしまう日が来る。しかも、それは主イエスが十字架にかけられ、復活させられるという、究極の福音の出来事の時でした。最も鮮やかに神の愛が示されたとき、12人もイエスに躓き、イエスの側から立ち去ってしまった。
福音は、私たちの躓きです。私たちはキリストが差し出してくださった神の良き知らせを拒み、拒否して、イエスのもとから立ち去ってしまうのです。どんな時代でも、どんな人でも、それが人間の姿なのだと思います。私たちが今主イエス様の御側にいるのは、そのような不敬虔で不忠実な私たちをそれでも見捨てないでいてくださる主イエスさまの憐れみによるのではないでしょうか。キリストがそれでもなお私たちを愛してくださるから、ただそれだけの理由で、私たちはキリストのものにして頂いているのです。

2023年11月28日火曜日

2023年11月28日の聖句

あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます。(詩編119:130)
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5:8)

今日の旧約聖書の御言葉は、文語訳が素晴らしいのでご紹介いたします。
「聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ。」
神さまの御言葉が、うちひらかれる。良い言葉です。ただ単に開くというよりも勢いがあります。御言葉が迫ってくる。御言葉の力、しかも光をもたらす力が私たちに差し込んでくる。すると、愚かな者をさとからしめる。御言葉の光によって私たちの愚かさが照らされ、明らかになり、もはや暗くなくなる。私たちは御言葉の光に照らされている。
照明を求める祈りを、礼拝の時に献げます。聖霊なる神様が私たちの光となってくださって、私たちに御言葉を聞かせてくださいという祈りです。神様こそ、私たちの光です。
更に驚くべきことを聖書は言います。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」神様が光だというだけではありません。神様は光だけど私は闇で、私は暗闇の中にうずくまったままだというのではない。神の光に照らされるとき、御言葉の光が打ち開くとき、聖霊の照明に照らされるとき、私たち自身もまた光となる。以前は私たちも暗闇でした。しかし今は違う。今や私たち自身も光になっている。神がそうしてくださった。私たちも光として生かされている。私たちは光の子。
これから、私たちは光の子として生きていきます。光の子として歩みなさい、という聖書の勧めは、本当に明るい私たちに向かう福音への招きです。私たちを光としてくださった方の御言葉に励まされて、御言葉の光に照らされて、私たちは光の子として生きていきます。

2023年11月27日月曜日

2023年11月27日の聖句

寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。(ゼカリヤ7:10)
あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。(エフェソ4:20)

主イエス・キリストは、息子を亡くしたナインのやもめと出会い、その葬送の列を留めてくださいました。彼女のために息子を死から取り戻し、返してくださいました。子どもたちの頭に手を置いて祝福し、外国人と友になり、人々には「貧しい人は、幸いである」と宣言なさいました。主イエス・キリストは社会の中の無に等しい人、顧みられない人、軽んじられ、蔑ろにされている人々を覚え、重んじ、慈しみをお向けになりました。キリストは私たちの先頭に立って、愛のわざを行っておられます。
「寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。」それは神の正義に反することです。寡婦、孤児、寄留者、貧しい人。この人たちは、社会の中で一番弱い人たちです。そういう事情は恐らく人間の歴史の中では殆どの時間、殆どの場所で同様だったのではないでしょうか。今でも、政治が優遇するのは企業や金持ちであって、外国人や貧乏な人のために積極的に手を打ち、その人たちを一番重んじるような政策を立案する人など見たことがない。しかしそのようなことは政治家をあげつらう必要もないのであって、この私をよく見てみれば、明らかなことです。私こそ、弱い立場に立たされている人々への愛に欠いている愚か者だということを認めないわけにはいかない・・・。
キリストはそのような私たちの間に立って、今日も、神の愛の御業を進めておられます。キリストの歩まれるその道には、いつでも、寡婦が、孤児が、寄留者が、貧しい人がいます。社会の中で特に顧みられることもない寡婦や孤児を、主はご覧になっている。差別され、すぐに犯罪者のような扱いを受け、危ない人のように白い目を向けられる外国人を、キリストは愛しておられます。自業自得と周囲から裁かれ、汚いとか臭いと鼻つまみ者のような扱いを受ける貧しい人のところへ、キリストは今日も進んで行かれます。
キリストが先頭に立って進む道へ、私たちも招かれている。愛の道へ、キリストは私たちを連れ出しておられるのです。

2023年11月26日日曜日

2023年11月26日の聖句

今週の聖句:
腰に帯を締め、灯をともしていなさい。(ルカ12:35)

今日の聖句:
主はいつくしみ深く、苦難の日の砦。
ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。(ナホム1:7)
求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。(マタイ7:7)

聖書は私たちが普通に世間で耳にするのとは違う言葉を語り出します。「ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」普通は、逃げるなと言われます。神様に自分の身を避けるなんて、現実逃避だと言われてしまいます。ところが神様はご自分に身を避ける私たちを憶えてくださっている。喜んで受け入れてくださる。私たちを御心に留めて、慈しみをもって扱ってくださいます。神は私たちの苦難の日に砦になって私たちを守ってくださいます。
何という安心でしょう。なんと幸せなことでしょう。神様が私たちの逃れ場になってくださるのです。神様が私たちの逃れてくるのを待っていてくださるのです。
教会で、ときおり、泊まりがけの集会が計画されることがあります。一日であっても、少し集中した祈りの時を持つこともある。時には教会堂や普段生活をしている場を離れて、環境の違うところに行くこともあります。そういうような集会を、横文字でリトリートと呼ぶことがあります。リトリートというのはもともとは軍隊用語で、「撤退」を意味するそうです。戦況が思わしくないとき、兵士が戦場を退いて休息を取ることを意味したのだそうです。一度撤退し戦場を俯瞰してみて、もう一度作戦を練り直す。私たちには霊的なリトリートが必要です。信仰の戦いの場から一度退き、休息し、作戦を練り直す場が必要です。この朝の祈りの時間も小さなリトリートとして、そのような時、そのような場になればと願っています。そして、主の日の礼拝こそ、私たちの最も大切なリトリートです。私たちの普段している営みを一度中断して、神様の前に逃れる。神様のもとに避けて、わが身を退けて出て行く。そうやって普段の営みをやめてしまうことなしに、私たちには信仰の戦いを戦うことができないのではないでしょうか。
主イエスは言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」ご自分を求める者に、神様は必ず御顔の光を向けてくださいます。神様の御許での休息を下さいます。主イエス・キリストの御腕の中へ、今こそ帰って行きましょう。私たちの魂のリトリートです!

2023年11月25日土曜日

2023年11月25日の聖句

主が語られたことをすべて行い、聞き従います。(出エジプト記24:7)
聞くだけではなく、御言葉を行う人でありなさい。さもなくば、あなたがたは自分自身を欺くことになります。(ヤコブ1:22)

私たちはただ神の恵みだけによって救われます。私たちが正しいからとか、立派な信仰者だから救われるのではありません。ただ神がご自分の恵みによって、神のご厚意で私たちを愛し、救ってくださった。それが私たちのすべてです。ただしその事実は、私たちが私たちを愛してくださったお方に信頼をもって<従う>ということと矛盾しません。それどころか、神を愛し、神の恵みに応えるときに、神の言葉に従うというのは自然なことであると思います。
「聞くだけではなく、御言葉を行う人でありなさい。さもなくば、あなたがたは自分自身を欺くことになります。」
ここに、とても興味深いことが書いてあります。神の言葉を行わないならば、私たちは自分自身を欺いている。自分に嘘をついている。あなたを愛してくださった神の言葉を聞くだけで従わないなら、あなたはあなたらしくなくなっている、と聖書は言います。
自分らしく生きるというのは、神様に従うということとは矛盾するように勘違いしてしまいがちです。自分らしく生きるというのは、自分のしたいことをすること。普通はそう考えられます。いや、確かにその通りです。私たちにとっては、私たちを愛し、ご自分の独り子まで下さった神さまに従うことこそが自分の一番したいことです。神様に従うときにこそ、私たちの本領がいよいよ発揮されるときです。私たちは本当に自分らしく生きることができるのです、神様の御前でこそ。神様のまなざしの中でこそ、神様に従うときにこそ、私は本当に自分が生きたいように生きている。
繰り返し、繰り返し、神様の愛に私たちは立ち帰ります。キリストの愛が私に迫っているから、私は神を喜び、神に従うことを喜びとして生きる。主イエス・キリストの十字架にかけられたままのお姿を仰ぐから、私はこのお方に付いていくことを最大の喜びとする。他には、私たちには何もないのです。

2023年11月24日金曜日

2023年11月24日の聖句

わたしは彼らに言おう、「あなたがたは私の民」と。
すると彼らは答えるだろう、「主よ、あなたこそわたしたちの神」と。(ゼカリヤ13:9)
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録21:3~4)

すべては神さまから始まりました。神様が私たちに「あなたがたは私の民」と呼んでくださいました。私たちが神様を捜して、選んで、「あなたが私の神」とお呼びしたのではありません。神さまの方から私たちと出会い、私たちを選んでご自分の民と呼んでくださいました。神様からです。すべては神様から始まりました。その神様の呼びかけに応えて、私たちも答えます。「主よ、あなたこそわたしたちの神」と。
もしも私自身にかかっているのだとしたら、こんなにも不安定で、不確かで、危ないことはありません。私の神様を求める心なんて本当にどうしようもなく自分勝手です。気分に左右されたり、今にも消えてしまいそうで、偽善的です。私の祈りも、私の信仰も、何の頼りにもなりません。しかし、真実はそうではない。私自身にかかっているのではなく、神様の呼びかけにかかっている。神様の「あなたがたは私の民」という御声こそが頼り。だからこそ、こんなにも確かなことはないし、こんなにも安心できる根拠は他にはありません。
このお方はご自分の民と呼ぶ私たちを深く慰めるために、私たちのところに来てくださるお方です。「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」神は私たちを捨て置くことなく、私たちの目の涙を拭うために私たちの側近くにまで来てくださる。だから、大丈夫。自分がどんなに不安定で、頼りなくて、自分の信仰がどんなに疑わしく見えたとしても、あるいは実際にそうであっても、私たちを救う神の宣言はどのようなときにも確かだからです。神は私たちをご自分の民として、慰め、励まし、共にいてくださいます。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...