福音、それは喜びの知らせです。それを聞けて良かったと思う知らせです。教会に良い知らせがあります!何か。主イエスの十字架は、あなたの救いだ!それを聞いて信じるだけで、父なる神はあなたをお認めになる。これが私たちに与えられている福音です。
都合がよすぎるでしょうか?確かに、私たちが抱えている悩みが福音を聞いて、何でもかんでも解決され、順風満帆にいきなりなる、という訳ではないかもしれません。私たちの想像する救いとは異なるのですから。ですが、私たちに最も必要な救いは、すでに実現し、与えられているのです。それは神との信頼関係に生きるということです。
そんな気休めのようなこと言われても・・・と思われるかもしれない。ですが、私は思うのです。聖書が私たちに問うていることというのは、「あなたはどのようにして神との信頼関係に生きるのですか?」という問いだということを。
パウロはガラテヤの人々に向けた手紙で言います。「あなたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」 霊を受けた。すなわち、神に認められ、神の霊によって生きるようにされた。それは律法を行ったからなのか?それとも福音を聞いて信じたからなのか?福音を聞いて信じたからに他ならないでしょう。神との信頼関係というのは、福音の言葉を聞いて信じるところにのみ、成り立つのだ!パウロはそのように語りかけています。
ですが、時にこんな風に思ってしまうかもしれない。神さまが何か具体的に働いてくださったら、信じられるかもしれない。そうすれば、私も神さまにお献げする生活を送れる。ですが、物々交換のような関係を神さまとの間で成り立たせるのは、私たちの救いではありません。人間の努力や行いで手に入る関係というのは、魅力的のようであっても、救いではありません。「こうすれば手に入る」という言葉は、ついには自分を滅ぼしてしまう言葉です。宗教改革者ルターは、信仰によって義と認められる、ということを自らの心に受け入れるまで、神と格闘した人物でした。「こうすれば救われる」という言葉と戦い抜いた人物だったとも言えます。世の中の言葉と戦った人物でした。
父なる神との関係において、わたしたちに与えられている唯一の言葉は福音です。それは、あなたは既に十字架の御業によって救いを受けている。あなたはそれをただ聞いて信じるだけでよい。それ以上も以下もない。あなたは信仰をもって福音を聞いたとき、救われた。神との信頼関係に生きるようになった。もはや、神はあなたを義と認められている。神との信頼関係に生きるように、導かれている。あなたを訴える者は、誰もいないのである。これこそが最も私たちに必要な福音の言葉です。