モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。(出エジプト記14:21)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマの信徒への手紙8:38-39)
ローマの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、主イエス・キリストを愛しぬいた人です。そして、それ以上に、キリストに愛されていることを知っていた人です。この人の原点を思わせる言葉が、ガラテヤの信徒への手紙の中に出てきます。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された。文語訳聖書を見ると、ここは、「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたる」と言います。十字架につけられ給いしまま、といいます。私たちは十字架を拝むわけではありません。十字架につけられたキリストを拝んでいます。このキリストのお姿を見つめる。それがパウロの原点です。私たちの原点です。その原点から、決して離れてはならないのです。
私たちも、この受難の金曜日に、十字架につけられたままのお姿のキリストを見つめましょう。このキリストにじっと目を注ぐことでしか見えてこない大切なことがあるのです。それは、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛です。この神の愛は弱い愛ではありません。不確かな愛ではありません。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」どんなものも、私をこの神の愛から引き離すことはできない。そういう、強い愛です。確かな愛です。しぶとい愛です。
私が不退転の決意で信仰から離れない、というのではありません。私の決心が固く、意志が確かだから神様から離れない、というのではないのです。神の愛が、わたしを離さないのです。キリスト・イエスの十字架によって示された神の愛が、私への愛を貫いてくださるのです。誰も私たちを奪うことはできません。パウロはこのとき、迫害されていました。「死も、命も、…」というのは、とても具体的な苦しみのことです。しかし、例えどのようなものも、私を神の愛から引き離すことはできない。十字架につけられたままのキリストのお姿が、そのことを私たちに語りかけます。
それは、神が海を押し返されるような、力強い御腕の力です。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。」神様は私たちのための縦になってくださって、私たちをすべての災いから守ってくださいます。十字架のもとに逃れましょう。十字架のキリストを仰ぎ、この方を礼拝しましょう。ここに顕された神の愛から、例えどんな被造物であっても、あなたを引き離すことはできないのです。
2024年12月27日の聖句
遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...