2020年3月29日日曜日

2020年3月29日(マルコによる福音書8:1〜21)

マルコによる福音書8:1~21;
「弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。その時、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』と戒められた。そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。イエスはそれに気付いて言われた。『なぜ、、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。』」
主イエスが言われます。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデ派のパン種に十分気をつけなさい」と。パン種は、僅かに入ると全体に広がって粉を膨らませます。ほんもののパン種はパンをおいしくしてくれますが、ここではそうではありません。全体に広がって膨らませるという比喩で、彼らの教えに警戒せよ、ということを意味している。ところが弟子たちは、イエスがおっしゃっていることを全然理解しませんでした。自分たちにパンの持ち合わせがないことを主イエスに責められていると思い込んでしまったようです。それで、互いにパンを持っていないことで議論をし始めた、と言います。主はその心のかたくなさにがっかりなさったことでしょう。
主イエスは彼らの心のかたくなさを嘆き、二度のパンの奇跡を思い起こさせます。5000人にパン五つを裂いたこと。七つのパンを4000人に裂いたこと。どちらも、パン屑がいくつもの籠に入るほどでした。この奇跡を悟っていない、と主は言われます。
ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種が彼らの教えであるならば、パン五つの奇跡とパン七つの奇跡は、主イエスご自身の教えであるはずです。つまり、主の御言葉を指しているのではないかと思います。私たちはキリストの言葉に養われ、その豊かさは籠に満ちあふれるほどです。キリストの言葉が、私たちを生かす命の食べ物です。そのことを悟るならば、ファリサイ派のパン種やヘロデ派のパン種を求めて命をつなぐ必要がなくなります。ファリサイ派については、その偽善を問題にされたのでしょう。ヘロデ派は、神の言葉を殺す人間の思い上がりを指摘なさったのかも知れません。私たちの心に救う罪を、主は御覧になっている。そこから私たちを解放するのは、キリストの御言葉です。キリストの言葉というパンを、主ご自身からいただき、私たちの祈りの日々は始まっていきます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...