マルコによる福音書8:22~38;
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
主イエスがこのことを始めて教えたのは、シモン・ペトロがイエスに信仰の告白をした直後のことです。「人々は、私のことを何者だと言っているか。」そう尋ねられ、弟子たちは世間の評判を伝えます。すると主イエスは「それでは、あなたがたは私を何者だというのか。」そこで、シモン・ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」
今礼拝で読んでいるヨハネによる福音書ではサマリアの女がイエスのことをメシアからもしれないとしかる野町の人たちに伝えていました。他の福音書はシモン・ペトロがそのことを告白します。いずれにしても、福音書はイエスこそメシアでいらっしゃることを私たちに証言しています。
メシア、救い主とはいかなるお方なのか。それが、今日私たちに与えられている御言葉が告げていることです。主は、メシアは苦しみを受け、排斥され、殺され、復活する方だと言われます。シモンはそれが受け入れられませんでしたので、脇へイエスをお連れしていさめ始めました。主はペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と激しく叱責なさいます。つまり、メシアは苦しみ、排斥され、殺され、復活する、それが決定的な急所なのであって、苦しまないメシア、十字架にかからないメシアではない、ということです。私たちの救い主は苦しむ救い主です。私たちが崇める神の子は、十字架に掛けられる神の子です。私たちは、神から捨てられた方の御言葉を聞いています。
私たちの救い主は、苦しみを知っている方です。私たちと同じ肉体をもって生き、肉体に食い込む苦しみを嘗め、人間の心の弱さも体験なさいました。今こそ、その事実は私たちの慰めです。今、私たちには苦難があります。主が知ることのない苦難はありません。主と関係のない痛みはありません。私たちは神のことではなく人間のことばかりを思います。キリストはそのような私たちのために苦しんでくださいました。主イエス・キリストの後について、キリストに従って、今日も歩んでいきたいと願います。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
主イエスがこのことを始めて教えたのは、シモン・ペトロがイエスに信仰の告白をした直後のことです。「人々は、私のことを何者だと言っているか。」そう尋ねられ、弟子たちは世間の評判を伝えます。すると主イエスは「それでは、あなたがたは私を何者だというのか。」そこで、シモン・ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」
今礼拝で読んでいるヨハネによる福音書ではサマリアの女がイエスのことをメシアからもしれないとしかる野町の人たちに伝えていました。他の福音書はシモン・ペトロがそのことを告白します。いずれにしても、福音書はイエスこそメシアでいらっしゃることを私たちに証言しています。
メシア、救い主とはいかなるお方なのか。それが、今日私たちに与えられている御言葉が告げていることです。主は、メシアは苦しみを受け、排斥され、殺され、復活する方だと言われます。シモンはそれが受け入れられませんでしたので、脇へイエスをお連れしていさめ始めました。主はペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と激しく叱責なさいます。つまり、メシアは苦しみ、排斥され、殺され、復活する、それが決定的な急所なのであって、苦しまないメシア、十字架にかからないメシアではない、ということです。私たちの救い主は苦しむ救い主です。私たちが崇める神の子は、十字架に掛けられる神の子です。私たちは、神から捨てられた方の御言葉を聞いています。
私たちの救い主は、苦しみを知っている方です。私たちと同じ肉体をもって生き、肉体に食い込む苦しみを嘗め、人間の心の弱さも体験なさいました。今こそ、その事実は私たちの慰めです。今、私たちには苦難があります。主が知ることのない苦難はありません。主と関係のない痛みはありません。私たちは神のことではなく人間のことばかりを思います。キリストはそのような私たちのために苦しんでくださいました。主イエス・キリストの後について、キリストに従って、今日も歩んでいきたいと願います。