2020年12月13日日曜日

2020年12月13日(ヨハネの黙示録13)

ヨハネの黙示録13
「第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものをいうことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」

最後に出てきた「その名の数字」というのは、すぐその後に「666」という数字だと書かれています。この数字が、昔、何かの映画の題材に使われたことがありました。そのイメージがある人もいるかもしれませんが、私たちはここをよく注意して読むべきであると思います。この数字は、悪魔の化身のような、何か特別な存在に刻印されている、という話ではありません。「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」すなわち、殆どありとあらゆる人間に、この数字が刻印されている。刻印というのは、普通は家畜にするものです。古代社会では奴隷にもしたのかもしれません。その奴隷や家畜が主人の所有物であるということを、消えない印をつけて確かにする。獣の名前が人間に刻印されてしまう。存在の深みに刻み込まれ、洗っても消えない。獣の所有物になってしまっている。
この獣は竜によって力を与えられ、尊大に振る舞っています。獣は神を冒瀆し、神を信じる聖なる者たちと闘い、彼らを打ち負かしてしまいます。人々は獣を拝む。この獣は、徹底して神に背く悪の力です。その名の刻印が人々に押されている。しかし人々はそれを拒むのではなく喜んで受け入れます。なぜなら、「この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできない」から。社会生活が、獣礼拝を前提に成立するようになっているというのです。
666という数字は、一説ではローマの皇帝ネロを指すと言われます。そうなのかもしれない。当時の帝国の人々は、神の名を尊大に汚し、キリスト者を迫害する皇帝ネロを礼賛し、その暴力に酔い、ネロの臣民であることによって社会生活を送っていました。この章に書かれていることは、実際にヨハネたちが目撃し、体験していたことなのです。
そんな中で、キリスト者たちは迫害されながら生きていました。ネロの印が体に刻まれることを拒んだから迫害されました。彼らは7:3~4に出てきた神の刻印を帯びています。この世の権力者ではなく、神のものとして生きたのです。私たちは、どうなのでしょうか。私たちは誰のものですか?神の刻印以外の何者かの刻印を喜んではいないでしょうか。私たちが信じる神は主の主、王の王であるから、私たちはこのお方だけを拝み、このお方だけを賛美するのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...