ヨハネの黙示録2
「しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい。」
ティアティラにある教会へのメッセージです。神さまは、この教会に言われます。「私は、あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、あなたの近頃の行いが以前の行いにまさっていることも知っている。」このように神さまに言って頂けるとは、何と幸せなことでしょうか。神が、ティアティラにあるこの小さな教会の行いも、愛も、信仰も、奉仕も知っていてくださるのです。恐らくこの教会の周りでも、日に日に信仰者として生きることへの厳しさが増していたに違いありません。それでもけなげに生きている者たちの小さな信仰を、神さまは見逃すことなく憶えていてくださいます。
ただ、それだけでは終わらない。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルと言う女をなすがままにさせている。」イゼベルというのは、列王記第16章29節以下に登場するイスラエルの王アハブの妃の名前です。彼女はイスラエルの王家に輿入れするときに、自分が生まれ育ったシドンの神々を持ち込みました。バアルと呼ばれる偶像です。イゼベルは徹底的にイスラエルの信仰を破壊し、王もそれに同調してバアルを拝んでバアルの神殿を建て、バアルの祭壇で礼拝をしました。アハブとイゼベルの時代にイスラエルで預言者として活動したのがエリヤで、預言者エリヤはたった独り残った主の預言者という状況で闘ったのでした。黙示録が語るティアティラ教会へのメッセージに登場するのはこのイゼベルという名前で、もちろん、象徴的な意味を持たせた名前です。実際にイゼベルという女がこの教会にいたということではないでしょう。神ならぬものに人々を向けさせるような者がこの教会にいて、教会がその人に対して正しく「否」ということができなかった、ということをヨハネが指摘しているのです。
しかしそれでも、ティアティラ教会にも、イゼベルのようなその人物の教えに与しなかった者もいる。その人たちは「サタンのいわゆる深みを知らない」と言われています。私はこの言葉を読むと、はっとします。サタンの深みは、知らなくて良いのです。うっかりすると、神のこと、キリストのことだけを知るのではなく、それ以外のことも知らないと冷静な判断ではないような気がしてしまいます。両論併記しないとフェアではない、と。しかしそうではない。サタンの深みなど知る必要はない。一心にキリストに心を向けてよいし、イゼベルと闘ったエリヤも両論併記などせず、まっすぐに神に仕え、従い通したのです。例えば夫婦であれば、この妻と他の女性とどちらが良いのかということは比べられない。相手はたった一人。それと似ています。主なる神様は、一心に私たちに向いていてくださるのです。
「しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい。」
ティアティラにある教会へのメッセージです。神さまは、この教会に言われます。「私は、あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、あなたの近頃の行いが以前の行いにまさっていることも知っている。」このように神さまに言って頂けるとは、何と幸せなことでしょうか。神が、ティアティラにあるこの小さな教会の行いも、愛も、信仰も、奉仕も知っていてくださるのです。恐らくこの教会の周りでも、日に日に信仰者として生きることへの厳しさが増していたに違いありません。それでもけなげに生きている者たちの小さな信仰を、神さまは見逃すことなく憶えていてくださいます。
ただ、それだけでは終わらない。「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルと言う女をなすがままにさせている。」イゼベルというのは、列王記第16章29節以下に登場するイスラエルの王アハブの妃の名前です。彼女はイスラエルの王家に輿入れするときに、自分が生まれ育ったシドンの神々を持ち込みました。バアルと呼ばれる偶像です。イゼベルは徹底的にイスラエルの信仰を破壊し、王もそれに同調してバアルを拝んでバアルの神殿を建て、バアルの祭壇で礼拝をしました。アハブとイゼベルの時代にイスラエルで預言者として活動したのがエリヤで、預言者エリヤはたった独り残った主の預言者という状況で闘ったのでした。黙示録が語るティアティラ教会へのメッセージに登場するのはこのイゼベルという名前で、もちろん、象徴的な意味を持たせた名前です。実際にイゼベルという女がこの教会にいたということではないでしょう。神ならぬものに人々を向けさせるような者がこの教会にいて、教会がその人に対して正しく「否」ということができなかった、ということをヨハネが指摘しているのです。
しかしそれでも、ティアティラ教会にも、イゼベルのようなその人物の教えに与しなかった者もいる。その人たちは「サタンのいわゆる深みを知らない」と言われています。私はこの言葉を読むと、はっとします。サタンの深みは、知らなくて良いのです。うっかりすると、神のこと、キリストのことだけを知るのではなく、それ以外のことも知らないと冷静な判断ではないような気がしてしまいます。両論併記しないとフェアではない、と。しかしそうではない。サタンの深みなど知る必要はない。一心にキリストに心を向けてよいし、イゼベルと闘ったエリヤも両論併記などせず、まっすぐに神に仕え、従い通したのです。例えば夫婦であれば、この妻と他の女性とどちらが良いのかということは比べられない。相手はたった一人。それと似ています。主なる神様は、一心に私たちに向いていてくださるのです。