詩編49
しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に栄誉が加わるときも
あなたは恐れるな。
死に際して、携えて行けるものは何もなく
栄誉がその後を追って下ることもない。(16~18節)
この詩編には徹底したリアリズムがあると思います。例え人が富を手にしたとしても、その家名がどんなに誉れを受けようとも、死を前にしては無力です。富や名誉によっても自分を守ることのできないような理不尽な不幸もあります。更にこの詩編の祈りを祈っている作者自身も、神に従っているけど不幸な目に遭っています。「災いの日に、なぜ恐れることがあろうか。私を追う者の悪に取り囲まれるとも」(6節)というのは、逆説的に、今自分は災いに遭い、自分を追う者の悪に取り囲まれているということになります。
この世にはたくさんの不条理があります。神に従っていても背いていても不幸になります。ことに理不尽なのは、神に逆らう者が栄え、従う者が不幸であることです。確かにこの詩編作者は自分の周りを取り囲む悪い者たちの富や結局は彼らを守らないと言ってはいますが、現に目に見えるところでは、彼らはその富のために喜び楽しみ、方や自分は彼らのために不幸に追い落とされているということなのだろうと思います。本当に不条理です。そして、私たちにも私たちなりによく分かる言葉です。だからこそ、この言葉が輝きを増します。
しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。(16節)
どんなに金持ちでも人からちやほやされていても、どうにもすることのできない問題である死。そこでこそ、神さまは私を救ってくださっている。それがこの詩編の確信です。
この世界は不条理です。悪い者が栄え、神に従う者はますます卑小にさせられます。しかし神さまは、死といういちばんの不条理から私たちを救うために、この世の不条理のすべてを引き受けたキリストを十字架にかけてしまわれたのです。陰府の底に沈む私たちの手を取るために、キリストは十字架の上で死なれたのです。
しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に栄誉が加わるときも
あなたは恐れるな。
死に際して、携えて行けるものは何もなく
栄誉がその後を追って下ることもない。(16~18節)
この詩編には徹底したリアリズムがあると思います。例え人が富を手にしたとしても、その家名がどんなに誉れを受けようとも、死を前にしては無力です。富や名誉によっても自分を守ることのできないような理不尽な不幸もあります。更にこの詩編の祈りを祈っている作者自身も、神に従っているけど不幸な目に遭っています。「災いの日に、なぜ恐れることがあろうか。私を追う者の悪に取り囲まれるとも」(6節)というのは、逆説的に、今自分は災いに遭い、自分を追う者の悪に取り囲まれているということになります。
この世にはたくさんの不条理があります。神に従っていても背いていても不幸になります。ことに理不尽なのは、神に逆らう者が栄え、従う者が不幸であることです。確かにこの詩編作者は自分の周りを取り囲む悪い者たちの富や結局は彼らを守らないと言ってはいますが、現に目に見えるところでは、彼らはその富のために喜び楽しみ、方や自分は彼らのために不幸に追い落とされているということなのだろうと思います。本当に不条理です。そして、私たちにも私たちなりによく分かる言葉です。だからこそ、この言葉が輝きを増します。
しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。(16節)
どんなに金持ちでも人からちやほやされていても、どうにもすることのできない問題である死。そこでこそ、神さまは私を救ってくださっている。それがこの詩編の確信です。
この世界は不条理です。悪い者が栄え、神に従う者はますます卑小にさせられます。しかし神さまは、死といういちばんの不条理から私たちを救うために、この世の不条理のすべてを引き受けたキリストを十字架にかけてしまわれたのです。陰府の底に沈む私たちの手を取るために、キリストは十字架の上で死なれたのです。