詩編75
高ぶる者には「高ぶるな」と
悪しき者には「角を上げるな」と言おう。
「角を高く上げるな。
首を上げて傲慢に語るな。」
人を高く上げるものは
東からも西からも
荒れ野からも来ません。
神こそが裁く方。
ある者を低くし、ある者を高く上げます。(5~8節)
ここに出て来る「高ぶる」という言葉はすぐにその意味が分かりますが、もう一方の「角を上げる」という方は今ひとつ分かりにくい表現です。角は、草食動物がもっているあの角のことです。もちろん人間には角は生えていないわけで、ここでは力の象徴と考えてよいと思います。悪しき者が自分の力を誇示している、その様子がここで指摘されている事柄です。
「角を高く上げるな、首を上げて傲慢に語るな。」自分の力により頼み、それを誇示して、傲慢な物言いでわが物顔で振る舞う。そのような高ぶる人間を、神さまが戒めている。そういう言葉です。
傲慢の罪はとても厄介です。自分が傲慢であるとき、多くの場合そのことに本人は気づきません。しかし、周りの人にはよく分かります。ですから、傲慢は他人の罪としてはよく見えるけれど、自分自身の罪としては気づきにくいという特性があると思います。それなら、どうしたら良いのでしょうか。
「人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神こそが裁く方。ある者を低くし、ある者を高く上げます。」神さまが、人を高くすることも、低くすることもなさる。人を高めたり低めたりするのは神さまの専売事項だと言っています。ここに鍵があるのだと思います。傲慢な思いは、周囲は自分をもっと誉めたり認めたりして当然だ、という思い込みから生まれます。自分は頑張っているからとか、成果を上げているからとか、他の人よりも優れているからとか、その理由はさまざまですが、認められて然るべきという心根は共通している。しかし、それをすることができるのは本来は神さまだけだと聖書は言うのです。神の前に自分は何者か?そのことを問う。それが大事なのではないでしょうか。そして、神の前に私たちが何者であるにせよ、神は私のことを知っておられます。それだけでよいのです。
高ぶる者には「高ぶるな」と
悪しき者には「角を上げるな」と言おう。
「角を高く上げるな。
首を上げて傲慢に語るな。」
人を高く上げるものは
東からも西からも
荒れ野からも来ません。
神こそが裁く方。
ある者を低くし、ある者を高く上げます。(5~8節)
ここに出て来る「高ぶる」という言葉はすぐにその意味が分かりますが、もう一方の「角を上げる」という方は今ひとつ分かりにくい表現です。角は、草食動物がもっているあの角のことです。もちろん人間には角は生えていないわけで、ここでは力の象徴と考えてよいと思います。悪しき者が自分の力を誇示している、その様子がここで指摘されている事柄です。
「角を高く上げるな、首を上げて傲慢に語るな。」自分の力により頼み、それを誇示して、傲慢な物言いでわが物顔で振る舞う。そのような高ぶる人間を、神さまが戒めている。そういう言葉です。
傲慢の罪はとても厄介です。自分が傲慢であるとき、多くの場合そのことに本人は気づきません。しかし、周りの人にはよく分かります。ですから、傲慢は他人の罪としてはよく見えるけれど、自分自身の罪としては気づきにくいという特性があると思います。それなら、どうしたら良いのでしょうか。
「人を高く上げるものは、東からも西からも、荒れ野からも来ません。神こそが裁く方。ある者を低くし、ある者を高く上げます。」神さまが、人を高くすることも、低くすることもなさる。人を高めたり低めたりするのは神さまの専売事項だと言っています。ここに鍵があるのだと思います。傲慢な思いは、周囲は自分をもっと誉めたり認めたりして当然だ、という思い込みから生まれます。自分は頑張っているからとか、成果を上げているからとか、他の人よりも優れているからとか、その理由はさまざまですが、認められて然るべきという心根は共通している。しかし、それをすることができるのは本来は神さまだけだと聖書は言うのです。神の前に自分は何者か?そのことを問う。それが大事なのではないでしょうか。そして、神の前に私たちが何者であるにせよ、神は私のことを知っておられます。それだけでよいのです。