2021年7月27日火曜日

2021年7月27日(コヘレトの言葉3:12~17)

コヘレトの言葉3:12~17
太陽の下、さらに私は見た。
裁きの場には不正があり、義の場には悪がある。
私は心の中で言った。
「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。
天の下では、すべての出来事に
  すべての業に時がある。」

コヘレトが見つめていた世界の現実は「裁きの場には不正があり、義の場には悪がある」という言葉で端的に言い表されています。公正であるはずの裁きの場に不正が入り込んでいる。正義が行われるはずの場所で悪が幅をきかせている。私たちも知っている現実、とても厳しい現実です。
私たちには、多かれ少なかれ、この世界は公正であり、最後には真実が果たされるはずだという信念があります。そういう信念を共有していなければ、社会は無秩序になってしまいます。努力が報われると信じられなければ、努力することもできなくなってしまいます。もちろん不条理なことや無秩序なことが起きることもあるけれど、それでも根本的には公正が是とされる世界であるはずだという理想を、多くの人間が共有しているのではないでしょうか。
コヘレトは公正が曲げられている社会の現実を見据えています。そのことは昨日読んだ1から8節の言葉の背後に戦争を思わせる言葉が多かったことからも窺わされます。社会の秩序が崩壊する時代を知っていたのかも知れません。そういう現実を前にして、コヘレトはどう考えたのか?コヘレトは言います。「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。」ただし、その裁きは分かりにくい。私たちの目に映る現実は、不正や悪がまかり通る現実ばかりで神の裁きは隠されている。それは神が定める「時」が私たちに隠されているのと同じです。神は確かに正しき者も悪しき者も裁かれる。しかしその裁きは私たちの目には隠されていて見えない。
それでは私たちが絶望せずに生きるにはどうしたら良いのか?コヘレトは言います。
「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に
  人の子らに幸せはない。
また、すべての人は食べ、飲み
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
これこそが神の賜物である。」
神に与えられた日として今日を楽しみ、喜んで食べたり飲んだりする日常の営みをする。これは人生を諦めて一瞬の楽しみに生きるということではありません。毎日の小さな営みや生きることそのものを肯定する言葉です。この世界がどんなに不条理でも、今日一日の幸せを楽しむことには意味がある。なぜなら神が今日という日を与えてくださったのだから。それは「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という祈りとともに「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださった主イエスの確信でもあるのです。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...