2021年8月10日火曜日

2021年8月10日(コヘレトの言葉11:1〜6)

コヘレトの言葉11:1~6
すべてをなす神の業は知りえない。(5節)

今日の箇所では、将来に対する私たちの無知が繰り返されています。
「あなたのパンを水面に投げよ。
月日が過ぎれば、それを見いだすからである。」
私はこの言葉が好きです。水面に向かってパンを投げるという一見すると無駄な行為を勧めている。パンを水に投げても、流されて失われてしまうだけです。私たちの知恵で分かるのはそこまで。しかし、驚くべきことが起こる、と言います。「月日が過ぎれば、それを見いだすからである。」水面に投げたパンを後の日に見いだすというのは、私たちの考えからは起こりえないことです。しかし現在しか見えないゆえに無意味にしか映らないことを、神さまに期待して誠実にするならば、後の日にそのパンを見いだす。もちろん、そのパンに養われることになるだろう、という意味に違いありません。この言葉はユダヤの伝統では慈善の行為をせよという意味で考えられてきたそうです。慈善の行いも、相手がお返しをしてくれるとか自分の慈善を見た周りの人が褒めてくれるとか、そういう見返りやお返し、ご褒美を期待できない行いです。期待しては慈善にならない。まさに水面にパンを投げるようなことであって、その先を生み出すのは神さまの御手の業です。私たちは将来に対して無知ですが、神さまはその手の中に治めておられます。
その他の言葉も同じだと思います。私たちは将来に対して無知だ。しかし、その将来は神さまの手の中にある。そのことへの信頼と、信頼するがゆえに今を誠実に生きることを求めています。6節にはこのようにあります。
「朝に種を蒔き
夕べに手を休めるな。
うまくいくのはあれなのか、これなのか
あるいは、そのいずれもなのか
  あなたは知らないからである。」
何がうまくいくのか、実りをもたらすのか、私たちには分かりません。だから私たちは今するべきこと、つまり種を蒔くことにいそしみます。最初から諦めたり、コストパフォーマンスをよくしたりするのではなく、今を誠実に生きる。そうしうるのは、将来が神さまの御手の中にあるからです。私たちには「すべてをなす神の業は知りえない」。だからこそ神を信頼し、神の業は神に委ねるのです。

2024年4月24日の聖句

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