2021年12月17日金曜日

2021年12月17日の聖句

主こそ私の受ける分、と私の魂は言う。だから私は主を待ち望む。(哀歌3:24)
あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。(1ペトロ1:8~9)

「主こそ私の受ける分」と言っています。主ご自身が私のための報酬です、という告白です。この言葉は旧約聖書の哀歌に収められています。哀歌。哀しみの歌という言葉の通り、ここには五編の哀しみの歌が残されています。ユダヤの国がバビロンに滅ぼされ、国は完全に崩壊し、主だった人々は遠いバビロン、今のイラクの辺りまで強制連行されてしまいました。哀歌はそうやって自分たちの国が崩壊した哀しみを歌う言葉です。生活の基盤や、自分たちの国の誇りや、信仰までも完全否定されてしまうような出来事です。家族も引き裂かれたに違いないし、地域コミュニティも無くなりました。土地に結びついたそれまでの生活も継続できません。何も無い。人とのつながりも無い。このような悲惨を嘗めるものたちの哀しみの歌の中で、言うのです。「主こそ私の受ける分」と。「だから私は主を待ち望む」と言うのです。
こんなに深い神さまとの交わりはありません。何に頼れなくても、どこにも確かさが無くても、どん底の現実にたたき落とされても、主ご自身が私の受けるべき報酬でいてくださる、だから私には望みがあると言い切るのです。上っ面ではない、骨身にしみた神への信仰、神への愛に生きている。
「あなたがたは、キリストを見ずに愛しており、今は見ずに信じています。あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れるでしょう。信仰の目的、すなわち魂の救いに達した時には。」この手紙を書いたのは、使徒ペトロです。三年近くにわたって主イエスと寝食を共にした人。イスラエルの中を一緒に旅してまわった人。主のお顔を見、主のお声を直接聞いた人。その人が言います。「あなたがたは、キリストを見ずに愛しているね」と。言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れているね、と。ペトロが言うのは、私たちのことです。私たちが主ご自身を報酬として喜んでいることを見て、ペトロも喜んでいる。主への愛の素晴らしさ、そしてそれ以上に主ご自身の愛のすばらしさを誰よりも知る人が、私たちの信仰のすばらしさを私たちと一緒に喜んでいます。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...