2021年12月3日金曜日

2021年12月3日の聖句

ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。(出9:34)
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。(ローマ2:4)

神さまはエジプトの国で奴隷として追い使われていたヘブライ人を救うために、モーセを遣わされました。モーセはファラオに会ってヘブライ人たちを解放するように願いましたが、ファラオは徹底的に拒みました。そこで、神さまはモーセを通してしるしを行われました。ナイル川が血に変わってしまったり、蛙が大量発生したり、ブヨが大量発生したりしました。そのたびにファラオは考えを改めて、ヘブライ人たちが国から出て行くことを認めた。しかしすぐにまた心変わりし、やっぱり行くことはまかり成らんと言う・・・その繰り返しです。
今朝の御言葉は、七つ目の災いです。大きな雹が降ってきた。しかもエジプト人のところにだけ降り、ヘブライ人はその害を免れた。今度もやはりファラオは言ったのです。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのは私と私の民である」と。しかし、その後災いが去り、ファラオは再び心を変えました。「ファラオは雨、雷、雹が止んだのを見て、またもや罪を犯し、心を頑なにした。」
このファラオとモーセのやりとりは、昔話のように読んでいると、ファラオは愚かだなと言ってしまいがちですが、我が事として読むと、とても身につまされる出来事です。何度も何度も同じようなことを繰り返し、痛み目を見て反省するのに、すぐにまた元どおり。それは多くの人が身に覚えのあることではないでしょうか。私たちが自分の生き方や習性を変えるのはなんと難しことでしょう。
御言葉は私たちに言います。「神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。」私たちの注目を引くのは、「神の慈しみが」と言っていることです。「神の怒りが」とか、「神からの罰が」とか、そういうふうには言っていません。ファラオやエジプトに起こったことを考えると神の怒りや罰と言った方が良さそうな感じさえしますが、神さまはもはやファラオにしたのと同じようには私たちに振る舞わないということではないでしょうか。キリストにあって、私たちのために、神さまは忍耐し、慈しみをもって接してくださる。もしも神さまが、神さまとして当然の怒りや裁き、罰をもって臨んだら、私たちはあっという間に滅びるべきです。しかし神さまは慈しみを選んでくださいました。愛を選んでくださいました。この神の慈しみは、私たちを悔い改めに導く慈しみです。今日、生かされているこの命をもって、神さまの御前に悔い改めの祈りを献げましょう。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...