神はモーセに言われた。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」(出3:5)
揺るぎない御国を受けている私たちは、感謝しましょう。神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)
モーセは柴の間で燃え上がる炎の中に、神様と出会いました。近づいてくるモーセをご覧になって、神さまは言われます。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」モーセは聖なる地、つまり神さまの御前にいたのです。
ここは、荒れ野の中にある山の片隅です。モーセはここで羊飼いをしていました。かつてはエジプトで王子として育てられていましたが、人を殺し、荒れ野に逃れ、この地で結婚してひっそりと暮らしていました。モーセのここまでの歩みを考えてみると、彼自身は、聖くも何ともないし、彼の人生が聖に向かって上昇していたわけでもないし、あるいはこの土地が何かいわれのある霊験高らかな場所というわけでもないただの荒れ野に過ぎなかった。しかし、そういうモーセを選んで、何の変哲もない荒れ野の一隅を選んで、神さまがモーセと出会ってくださった。だからこそここは聖なる場所、神の山と呼ばれたのです。
私たちが神様と出会う場所、そこが聖なる場所です。神さまはどこで私たちに出会われるのか。私たちが生きる、ここです。モーセは、社会的に見れば犯罪者ですし、落伍者です。しかしそんなモーセを選んで、モーセが社会の真ん中にいたときではなく周辺にさまよい出たときに、神がモーセと出会い、その場所が聖なる土地になった。神さまは、今日、私たちと出会ってくださいます。だから、私たちが今いる場所も、聖なる土地です。神はここを神の山にしてくださる。「神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう」と今日の新約聖書の御言葉は言います。私たちは畏れます。神の前、聖なる場所に今いることを。この畏れは、神と出会う畏れです。神が私と共にいてくださる意実への畏れです。今日、ここで、私は神の前に進み出ている。それが、今私たちが祈りを献げているということの意味する事実です。
揺るぎない御国を受けている私たちは、感謝しましょう。神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)
モーセは柴の間で燃え上がる炎の中に、神様と出会いました。近づいてくるモーセをご覧になって、神さまは言われます。「こちらに近づいてはならない。履物をぬぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だからです。」モーセは聖なる地、つまり神さまの御前にいたのです。
ここは、荒れ野の中にある山の片隅です。モーセはここで羊飼いをしていました。かつてはエジプトで王子として育てられていましたが、人を殺し、荒れ野に逃れ、この地で結婚してひっそりと暮らしていました。モーセのここまでの歩みを考えてみると、彼自身は、聖くも何ともないし、彼の人生が聖に向かって上昇していたわけでもないし、あるいはこの土地が何かいわれのある霊験高らかな場所というわけでもないただの荒れ野に過ぎなかった。しかし、そういうモーセを選んで、何の変哲もない荒れ野の一隅を選んで、神さまがモーセと出会ってくださった。だからこそここは聖なる場所、神の山と呼ばれたのです。
私たちが神様と出会う場所、そこが聖なる場所です。神さまはどこで私たちに出会われるのか。私たちが生きる、ここです。モーセは、社会的に見れば犯罪者ですし、落伍者です。しかしそんなモーセを選んで、モーセが社会の真ん中にいたときではなく周辺にさまよい出たときに、神がモーセと出会い、その場所が聖なる土地になった。神さまは、今日、私たちと出会ってくださいます。だから、私たちが今いる場所も、聖なる土地です。神はここを神の山にしてくださる。「神に喜ばれるように、畏れ敬いながら仕えていきましょう」と今日の新約聖書の御言葉は言います。私たちは畏れます。神の前、聖なる場所に今いることを。この畏れは、神と出会う畏れです。神が私と共にいてくださる意実への畏れです。今日、ここで、私は神の前に進み出ている。それが、今私たちが祈りを献げているということの意味する事実です。