2022年1月2日日曜日

2022年1月2日の聖句

見よ、私はただひとりであり、私のほかに神はいない。私は殺し、また生かすことができ、打ち、また癒やすこともできる。私の手からもぎとることのできる者は、誰もいない。(申命記32:39)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
これはハイデルベルク信仰問答の第一の問いです。これに対してこのように答えます。
「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、してくださるのであります。」
この問答の言葉が今日の御言葉のための最高の解説なのではないかと思います。神さまは私たちを殺すことも、生かすこともおできになります。打つことも、癒やすことも、神さまには自由にすることができる。だからこそ「私の手からもぎ取ることのできる者は、誰もいない」と神さまは言うのです。私たちを神の手から奪い去ることなど誰にもできない。私の命は神さまの御手の内にあるのだから。髪の毛一本すらも神さまの赦しがなければ落ちないのです!
そのような完全な支配の力を持って、神さまは、私たちを罪と死から完全に取り戻してくださり、悪魔から救い出し、私たちが神のものとして生きることができるように、キリストの命をもって買い取ってくださいました。だから、私たちは生きるにしても死ぬにしても、キリストのものとして、キリストのために生き、また死にます。どのようなときであっても、私たちをキリストによって示された神の愛から奪う取ることのできる者などいないからです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...