2022年3月15日火曜日

2022年3月15日の聖句

主はこう言われます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。」(王下20:5)
叩きなさい。そうすれば、あなた方に開かれる。(マタイ7:7)

今日の新約聖書の御言葉の直前には「求めなさい」、「探しなさい」とあって、それに続けて「叩きなさい」と言われています。これら三つの命令は別々のことを言っているのではなく、明らかに同じことを指している。すなわち、熱心に祈り求めなさいということを言葉を換えて三回重ねています。ということは、主イエスはとても強い思いを持って祈りを教えてくださっているということではないでしょうか。私たちは熱心にとを叩いて神さまに向かって祈る。「そうすれば、あなた方に開かれる」と主イエスは言われます。
北原白秋の「まちぼうけ」という童謡があります。野良仕事をしていたところにウサギが跳んできて、木の根っこにぶつかって死んだ。それを持ち帰ってご馳走にありついた男が味を占めて、翌日からは畑仕事もせずにまたウサギがぶつからないかとその木の根を見張って待ちぼうけをしている、という歌です。棚からぼた餅が落ちてくるのを、口を開けて待つ滑稽さを歌います。主イエスは、私たちの信仰はそういうものではないとおっしゃいます。熱心に戸をたたけ、と。熱心に祈るその祈りに答えて、神は門を開けてくださるから。
私たちの祈りが熱心にならないのは、「どうせ」という諦めが先にあるからなのかも知れません。熱心に祈ってかなえられなかったら傷つくからです。確かに、神さまは私たちが祈ったとおりにはしてくださらないかも知れません。あるいは、叶えられないことの方が多いかも知れない。そうすると「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす」という御言葉は、たまたま幸運な人の話に過ぎないのでしょうか?
本当は、私たちは、自分にとって何が癒やしなのかを知らないのかもしれません。私たちは自分の願いの通りになることが一番だと信じていますが、神さまの目からご覧になると、そうではないのかも知れません。それは私たちにとっては不思議であって、短い時間の中でしか見ることのできない人間の目では判断が付かないことです。しかし、熱心に門を叩く祈りを神は必ず聞いてくださっています。何より、必ず開かれるというのはあの十字架にまでかかったお方の約束です。私たちには分からないことがたくさんありますが、キリストの愛と慈しみは知っているし、この方の言葉が信頼できることを知っています。だから、祈りましょう。熱心に。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして。必ず、その祈りを神は聞いてくださいます。

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31) (イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28) 福音書記者マルコは主イエ...