2022年3月21日月曜日

2022年3月21日の聖句

行くべき道を知らせてください。私はあなたを渇望しているのですから。(詩編143:8)
敬虔であることが大きな富の源です。それが満ち足りる心と結びついていれば、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできないからです。(1テモテ6:6~7)

「敬虔であることが大きな富の源」と言っていますが、ちょっとドキッとする言葉です。敬虔に神を信じれば、大きな富が転がり込んでくるということなのか?しかしそうかと思って今日の最後のところを見てみると、「私たちは、何もこの世に持ってこなかったし、また、何かを持って出ることもできないからです」と書かれていて、やはりこの世の富は天国に持って行けないというようなことも言っています。すると気づくのは、「それが満ち足りる心と結びついていれば、大きな利益を得る道です」と言って、"満ち足りる心"にふれているということです。事実、これに続く8節では「食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」と言っています。金持ちになることが私たちにとっての本当の利益になるわけではなく、神が既に与えてくださっている富の大きさに気付き、自分の分に応じて与えられたものとして満足するということではないでしょうか。
ところが、旧約聖書に目を向けると、また戸惑います。「私はあなたを渇望しているのです」と言っています。渇望というのは、本当に強い渇きなのでしょう。荒れ野が渇いているように、涸れ谷に水がないように、渇望している。満ち足りる心とは正反対です。しかし、ここでの渇望は「あなたを渇望している」と言っているとおり、神さまを求める渇きです。いつあなたの御前に出られますかという渇望です。祈りに応え、あなたのみ顔を向けてください、と渇ききった魂が訴えている。
今日の聖書の御言葉は、この世の富については食べる物と着る物があれば満足するようにと言い、神さまに向かっては渇望して求めよと言います。ところが私たちは逆です。神さまのことなんて知らんふりをして、祈ることについてはどんなに些少でも満足してしまって、この世の富については、食べるだけ、着るだけでは満足できずに渇望している。まったくあべこべになっています。しかし私たちには、神さまにしか満たすことのできない渇きがあるし、神さまにしか満たすことのできない欠けがあるのです。他の何でもなく他の誰でもなく、ただ神様に向かって渇き、神さまを求めている。それが私たちの本当の渇きです。神さまは必ず御顔を向けて、私たちの祈りを聞いてくださいます。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...