2022年5月19日木曜日

2022年5月19日の聖句

神はいつくしみを忘れたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。(詩編77:10)
罪が力強くなったところでは、恵みはよりいっそう力強くなりました。(ローマ5:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、私たちが繰り返し、そしていろいろな仕方で繰り返しつぶやいている言葉なのではないでしょうか。「神はいつくしみを忘れたのか。怒って、あわれみを閉ざされたのか。」神さまは私のことなど気にかけてはおられない、神さまの愛なんて実感できはしない・・・。私が悪いからなのか?神さまに怒られているのか?神さまの憐れみの対象にはなっていないのか?
しかし、今日の新約聖書の御言葉はそんな私たちの世界を一変させます。「罪が力強くなったところでは、恵みはよりいっそう力強くなりました。」これは私たちにとっては、常識の外にある言葉です。私たちの知恵の及ばない言葉ではないでしょうか。罪が力強くなれば、普通は罰が強くなります。そうでないと正義が貫かれない、と私たちは思う。しかし、聖書はそうは言いません。罪が力強くなったところで、恵みが一層力強くなった、と言います。これは、イエス・キリストによって初めて開かれた世界です。
神さまは罪深い私たちをかえって憐れみ、愛してくださいました。神の怒り、罪の咎を、イエス・キリストに負わせられたのです。改革者マルティン・ルターは、その事態を結婚指輪のようだと言います。花嫁である私たちが持っていた一切の負債をキリストはご自分のものとして引き受けてくださった。代わりに、花婿キリストの持っておられたすべての豊かさを私たちのものとしてくださった。まるで結婚指輪を交換するように、キリストと私たちとの間に喜ばしい交換が起こったのだ、と。
自身をかえりみて、つぶやいてはいないでしょうか。神さまは私の事なんて気にしていないのだと思い込んではいないでしょうか。それは、思い込みです。私たちに主イエス・キリストを与えてくださった神さまは、キリストと共に私たちにすべてを下さいます。今日、この一日の私たちの歩みがキリストの御前にあり、主と共に生きる喜びにあずかるものでありますように。
祝福を祈っています。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...