2022年7月21日木曜日

2022年7月21日の聖句

私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをするとき、あなあたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。ーー主なる神の仰せ。(エゼキエル16:61,63)
神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。(2コリント7:10)

今日の旧約のエゼキエル書で「贖いをする」という言葉があります。どういう意味で使われているの言葉なのかと興味を持ったので調べてみると、ほとんどは「罪の贖い」とか「命を贖う」などの意味で使われていました。ただ、別の興味深い使い方もありました。創世記6:14に「箱舟には小部屋を設け、内側にも外側にもタールを塗りなさい」とあります。神さまがノアに箱舟の造り方を指示しているところです。この中の「塗りなさい」という言葉が、先ほどの「贖う」というのと同じ言葉です。面白い言い回しだと思います。この言葉には「覆う」という意味がある。罪の贖いというのは、従って、罪を覆って見えなくしてしまう、といった意味合いになるのだと思います。
「私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをする(すなわち、罪を覆ってしまう)とき、あなあたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。」主なる神さまはそのように言われます。
普通、罪を覆って見えなくしてしまうと言われると、裸を布で覆って見えなくするみたいに、恥が隠される、恥ずかしいところを人目につかなくするという印象を受けます。しかし、神さまはそのようには言われません。神さまは私たちの罪を覆ってしまう、私たちの罪をもはや見ないでいてくださる。しかしそれは、なかったことにはならない。私たちの生き方が曲がってしまった事実は残る。そのことは私たちにとっては恥のままです。そうであるにも拘わらず、神さまはもはやそれに注目し、私たちを責めることはなさらない。神さまは御自身の目から私たちの恥を取り去ってくださるのです。
私たちはその事実を前にして、ただただ畏れをもって感謝するよりほかありません。罪を悔い改め、神さまの御前に恥じ入りつつ、赦してくださった神さまをほめたたえます。「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」恥じ、悔いるしかないこの罪を、神さまは赦し、もはやご覧にはならない。神の圧倒的な赦しの恵みが、私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...