主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。(エレミヤ17:14)
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というと、いかにも当たり前のことを言っているように感じます。ところが続く言葉によって、まったく当たり前ではない、新しい言葉に変貌します。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは、本当にたいへんな言葉です。罪人というのは、考えられるかぎりで社会の中で一番見下げられている人、というイメージだと思います。しかしただ単に「嫌われ者」と書いてあるのではなくて、ここでは特に「罪人」と呼ばれています。これは、神さまとの間が安らかではなくなってしまっている、ということです。神さまが招いているのは、神さまに対して罪を犯し、人からも見下げられている人だ、と主イエスは言っておられるのです。
失われた息子は、父を捨てて、父のもとを離れてしまったから、遂には豚飼いにまで身をやつしてしまいました。(ユダヤ人にとって豚は汚れた動物ですので、私たちにとっての豚飼いとは意味が違います。豚飼いになったというのはユダヤ人、神の民であることを放棄したという意味になります。)この息子は放蕩をして道徳的に悪かったから悲惨なのではなく、この譬え話に登場する父、つまり神さまを捨てたから、神さまの前で失われてしまった。惨めな彼を助けてくれる人はいませんでした。ただ父だけが彼を愛し続け、彼を迎えてくれました。
「主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。」神さま以外に、一体誰が私を癒やし、救ってくださるのでしょうか。私は神さまを離れてしまったから、今惨めなのです。その惨めさは神様ご自身が癒やし、救ってくださいます。私たちがどんなに駄目でも、どんなに嫌われ者でも、どんなに神さまを深く傷つけたのだとしても、神さまはそれでも私を見捨てずに、愛してくださっています。
キリストは病人を癒やす医者として来てくださいました。罪に病む私を癒やし、救うために、キリストは来てくださったのです。
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というと、いかにも当たり前のことを言っているように感じます。ところが続く言葉によって、まったく当たり前ではない、新しい言葉に変貌します。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは、本当にたいへんな言葉です。罪人というのは、考えられるかぎりで社会の中で一番見下げられている人、というイメージだと思います。しかしただ単に「嫌われ者」と書いてあるのではなくて、ここでは特に「罪人」と呼ばれています。これは、神さまとの間が安らかではなくなってしまっている、ということです。神さまが招いているのは、神さまに対して罪を犯し、人からも見下げられている人だ、と主イエスは言っておられるのです。
失われた息子は、父を捨てて、父のもとを離れてしまったから、遂には豚飼いにまで身をやつしてしまいました。(ユダヤ人にとって豚は汚れた動物ですので、私たちにとっての豚飼いとは意味が違います。豚飼いになったというのはユダヤ人、神の民であることを放棄したという意味になります。)この息子は放蕩をして道徳的に悪かったから悲惨なのではなく、この譬え話に登場する父、つまり神さまを捨てたから、神さまの前で失われてしまった。惨めな彼を助けてくれる人はいませんでした。ただ父だけが彼を愛し続け、彼を迎えてくれました。
「主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。」神さま以外に、一体誰が私を癒やし、救ってくださるのでしょうか。私は神さまを離れてしまったから、今惨めなのです。その惨めさは神様ご自身が癒やし、救ってくださいます。私たちがどんなに駄目でも、どんなに嫌われ者でも、どんなに神さまを深く傷つけたのだとしても、神さまはそれでも私を見捨てずに、愛してくださっています。
キリストは病人を癒やす医者として来てくださいました。罪に病む私を癒やし、救うために、キリストは来てくださったのです。